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2018年08月08日06:19

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仏教的世界観 無常と空 

「 始めに言葉ありき」という言葉が象徴するように、西洋においては言葉に対する万能感が強い。「思考しえること」=「語りえること」の図式が強固に信じられている。しかし、あるがままに自然を見ようとする仏教的視点から見れば、そのようなロゴス信仰が反自然的原理を招き入れる源となっていると考えられるのである。

中島義道先生はわが国におけるカント研究の第一人者であるが、その著書『後悔と自責の哲学』の中で、次のように述べている。

【 言葉を学ぶとは、恐るべき多様な差異を同一の観念へとまとめあげる仕方を学ぶことであり、いったん言葉を学んでしまうと、もう世界はそういうさまざまな「同一のもの」の繰り返しとして見えてきてしまいます。】

自然は流動しているから常に多様な差異を生み続けている。しかも、微細に見れば同じことの繰り返しなどそこにはないはずである。双子と言えども細胞レベルで見れば同じということはないし、しかも不断に変化し続けているのである。ここで「差異」という言葉を使用してしまったが、その言葉は本来「同一」の観念があってこそ成り立つ概念である。ものを固定して見ることをしない仏教的観点においては「差異」というものはもともと存在しないものである。ものごとに境界を設け比較することによってはじめて「差異」は生まれるが、自然の変化は不断かつ連続的に生じているのだから、客観的な境界というものはあるはずもなく、「差異」は生まれようがないのである。

そのままだと世界はカオスのままであり、人間は生きていくことができない。カオスの中からなんとか似たパターンを読み取り、ゲシュタルトを構成する。よく似たものを同一と見なし、それ以外のものの間に恣意的な境界を設けるのである。

「山は山に非ずこれを山と名づく」というのはその辺の事情を表す言葉である。我々が「山」と呼んでいるものも、他の場所に比べて岩や土が多く比較的盛り上がっている、そういうものにすぎない。土や石をひとかけらずつ取り除いていくと、いつか「山」とは呼ばれなくなる。そこで山と非山の境界はないことが分かる。実体としての山というものはもともとなかったのだ。

同様のことは、物の名についてだけではなく、人間の行動についても言える。例えば、「走る」という行為について考えてみよう。「走る」というのは左右の足を交互に前に出し進むのは「歩く」と同じだが、足を生み出す際に両足が地面から離れる、つまり一瞬空中を飛ぶような動作のことを言う。

ここで一つ想像してみよう。普通に走っている状態から、少しずつ歩幅を縮めていくとする。最終的にその歩幅が1ミリメートルになったら、他人から見ればそれは片足ずつ交互に「その場飛び」をしているとしか見えないはずだ。「走る」ということの本質は存在しないのである。

いかなる言葉にも突き詰めてみればその本質は存在しない、概念はすべて恣意的であると知るのが「空観」である。

龍樹は『中論』という論文の中で、次のように述べている。
  すでに去ったものは去らない。
  いまだ去らないものは去らない。
  現在去りつつあるものも去らない。
「すでに去ったもの」や「いまだ去らないもの」が去らない、というのはわかるとしても、「現在去りつつあるもの」が去らないというのは、不合理な気がする。一見屁理屈のようだが、龍樹は「去る」という行為の本質が存在しないということを言っているのである。

中村元先生によれば、『中論』は説一切有部という学派への反論の書である。言葉の本質を認めるような教説は無常や空の否定につながる。龍樹はそのことを認める訳にはいかなかったのである。
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