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2018年08月19日13:30

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言霊

15年くらい前にチリの友人を訪ねて行ったことがある。飛行機がサンチアゴに着く前にキャビンアテンダントが税関の申告書を配ってくれたのだが、外国旅行に慣れていない私は戸惑ってしまった。書類には、南緯xx度以北の海産物はどうのこうのと書かれている。友人への土産に海苔や鰹節などを持っていたのだ。どうしたものかと考えあぐねていると、隣の席の若いアメリカ人が、"Can I help you?" と聞いてきた。思わず私は "Yes." と言ってしまったのだが、驚いたことにその青年は書類に書かれていることをそのまま読み始めたのだ。私は具体的にどうすればよいかというアドバイスが欲しかったのだが、その青年は私が英語を読めないと判断したらしい。読めないものが聞いてわかるはずがないと考えるのは日本人の常識なのだろう。そのアメリカ人にとって、書かれている文字は単なる記号に過ぎないが、自分の話す英語は意味そのものだと感じているのではないかと、私はその時感じたのである。

言葉というのは不思議である。初めて聞く言葉は記号に過ぎないのだが、いざ自分がそれを使いだすと実体的な感覚がその言葉についてくるのである。また、そうでなければ我々は言葉をこのように自在に操ることはできないのだろう。

ウィトゲンシュタインの名を初めて知ったのは新聞のコラム記事を通じてであった。その時そのような名の哲学者がいるということだけを知ったのである。それからというもの、彼が「論理哲学論考」という書物を著していること、オーストリアの大富豪の息子であること、等々いろんな知識を得ることになった。つまり、彼に属する情報はどんどん膨らんでいった。つまり彼に関する情報はどんどん変化しているはずなのに、私は最初に「ウィトゲンシュタイン」という名を知ったときから一貫して一個の同じ人間を把握していたつもりになっている。考えてみればこれはとても不思議なことに思える。ウィトゲンシュタインの名を知ったときから、私の意識の中で一個の人間が実体化されているのである。




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