■うそ
▼「馬鹿正直」や「生真面目」というのは、「正直」や「真面目」という「力」が、
普通の「正直」や「真面目」より、もっとたくさんあるということだろうか。
どうも、そうではないような気がする。
より「強力」である、というより、それは何かの「欠落」ではないのか。
▼「過ぎたるは及ばざるが如し」のように、過剰はある種の不足であって、
極端に走るのは、何かが欠け、不足しているように思う。
▼「嘘」についても、そうだった。
私は、「うそをついてはいけません」と言われて育ってきた。
嘘をつくのは悪いことだと教えられてきた。
いまの子供たちにだって、親は、そう教えるにちがいない。
私の母は、当時の母親が子供にしつけるように、「うそをついてはいけません」と、
ただ当たり前に、そう教えただけで、とくべつに「嘘」について、何かを教えたわけでは
なかった。
ただ、少し違ったのは、シベリアから引き揚げてきた若き「父」が厳しかったことだ。
▼淡路の津井の「中央」で暮らしていた頃、妹のミルク用としてあったのかどうか、
(なぜあったのかは判然としないが)、台所に缶詰のコンデンスミルクがあった。
加糖練乳で、舐めると甘くて、舌がとろけるようなおいしさだった。
家が留守のとき、私はこっそり、それを取り出し一口ごくりと飲み、舌なめずりした。
缶には二箇所、穴があけてあって片方の穴は空気抜きで、もう片方から口をつけて、
チューっと吸出し、ごくりと飲む。
おいしいから、また一口飲む。
▼コンデンスミルクは、当時、高価というか、我が家では自由に子供が飲むものとして
買ったものではない。
親の目を盗んで、私は、量が減ること、それを親に気づかれることを心配しながら
少し、ほんの一口と思って飲んだ。
もとの場所に缶をもどして、私はコンデンスミルクのことは親には言わなかった。
何食わぬ顔をしていた。
でも、きっと顔にも現れていたに違いない。
▼そして、案の定バレて問い質されたのだと思う。
そして、嘘をついたのだと思う。
はっきりとは覚えていない。
父は、「こっそりミルクを飲んだことは悪いことだが、それ以上に、嘘をつくことはもっと悪い」
というような理屈を説いたかもしれない。
ともかく、こっぴどく叱られたと思う。
私は強情だから、折檻されたのかもしれない。
もう、みんな忘れてしまっている。
しかし、コンデスミルク事件があったことは事実で、そのことで、私は「嘘」についての
記憶が残った。
▼子供は嘘をつくものである。
自分の置かれている状況が窮地に陥れば、言葉で事実を挽回しようとする。
自分の身の安全を図る。 保身する。
大人は嘘はつかないのだろうか。
「父」は嘘をつかないのだろうか。
でも、嘘をつくのはよくないことだ。
▼この事件は、小学校にあがる前のことだったろうと思う。
それ以降も、私は何度か嘘をついた。
バレて叱られたこともあったろうし、バレなかったこともあっただろう。
バレなくても、嘘をついたことを自分は知っている。
▼小学生になり、中学生になり、高校生になっても、
「嘘」は私にとって大きな問題だった。
「私はうそつき」なのだろうか。
「偽善」という言葉を知り、そのことで悩む以前に、「事実」と「嘘」ということで私は悩んだ。
大学にあがり、社会に出ても、この「問題」は私を悩ませた。
▼さてさて、この歳になって翻ってみるに、果たして「事実」というもの
にはどんな価値があるのだろうか。
「事実」は「事実」にしか過ぎない。
そんなもののために、どうして言葉でもって「事実」を覆そうとするのか。
言葉で「事実」は覆りはしない。
そんな当たり前のことがわかっていながら、「嘘」をつく。
「嘘」とは一体、何だろう。
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