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2005年12月11日13:13

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●そのとき、私は・・・( 2)/■アルバム

■家族写真―昭和39年3月―

 ・「寮」は、玄関ホールを入ると、右端の「食堂」まで
  廊下が続き、その左右両側に4畳半の部屋があって、
  突き当たりに「洗面所」、その左手に「風呂場」、
  右手が「食堂」で、右に曲がるところに、二階に上がる階段があり、
  二階にも、廊下をはさんで左右に4畳半の部屋が並んでいた。

 ・大学を受験するとき、神戸の叔父が「宿」としてこの「寮」を
  選んだ。それで、合格して下宿を探すとき、私は迷わず
  この「寮」にした。
  
  宮崎から、あずき色の大きな「ふとん袋」に、ふとん以外に、
  服や本や文具やラジオなど、私の「大学生活」をはじめる家財道具・
  財産のすべてを押し込み、チッキで送った。

  家にあったアルバムから、私の幼いときの写真や家族の写真を
  抜き取った。また、「ふとん袋」には、母が「新調」という文字を
  書いてくれた50センチの竹の物差しや針山を入れた。
 

  そのほかの私のもの、すべてを妹にやった。もっていかない本や、
  小学校4年のときから蒐集しはじめた「切手帳」、それに
  八王子の織物工場時代に、私の父祖が大阪で開催された「国内産業
  博覧会」に出品し、入賞記念にもらった白銅のメタルも
  すべて妹にやった。


 ・それは、私の「家の別れ」であった。父からの逃亡であった。
  母と妹を残し、自分だけが「家」を出ることに「後ろめたさ」が
  あった。しかし、私は、どうしてもこの「家」を離れたかった。

  神戸に旅立つ前、店の二階の広間で、店を手伝ってくれていた、
  もう名前を忘れたが、そのお手伝いさんを入れ、家族4人と
  いっしょに記念写真を撮った。

  私は、これ以上に不愉快なことはないような「陰鬱」な顔をして
  写っていた。


 ・後年、まず母が亡くなり、残された父が家を片付け、宮崎から
  都城に移り住むようになって、どうしたことか、アルバムは
  処分され、父が亡くなったときは、わずかばかりの父の幼少時と
  若いころの写真だけが、父のもとに残っていた。

  また、今年、妹がなくなって、四十九日のあと妹のアルバムから
  私たちの家族の写真にようなものはないかと、婚家の夫に尋ねたが、
  なかった。妹は、ひとりの子供を残し、まえの夫のところから
  無理やり、宮崎から追い出されるようにして、ある日、突然、
  私に連れられ神戸にでたので、ほんとうに、身ひとつ、前夫と
  離婚した後も、何も取り寄せず写真の類はなにも持っていなかった
  のだ。


 ・いま、私のところにある10枚くらいの、そのとき私が持ち出した
  写真が、我が家の「家族写真」のすべてになってしまった。


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