■「声色(こわいろ)」
人はときと場合によって
声を使いわける。
怒っているときに
ニタニタしてしゃべるとき同じトーンと抑揚で
しゃべったら
怒られている人は「叱られている」あるいは
この人は「怒っている」と感じずに
馬鹿にされているような気分に陥るのではないか。
また、友達と話すときと先生と話すときは
当然、しゃべり方が異なるだろう。
もっとも最近では、
女子大とくに短大などでは
大学の先生(教授)もかたなしで
「せんせ〜」「あのね、あたし、きのうね・・・・・」
などと、お友達のように話しかけられる
という話を国立大学を定年退官し、女子大の教授に
なった人から聞いた。
せっかく、人にはいろんな声が出せる能力が
備わっているのだから
それを使わない手はない。
「涙」が武器であるように
「声」もひとつの力である。
つい最近、このmixiで
ある年齢に達したなら「顔」に責任を持たねばならぬ
「顔」は「人格」である、という話になった。
そして、「顔」だけでなく「声」もまた「人格」であり、
自分の「声」にも責任を持たねばならぬ
ということに話は至った。
■会話を楽しむ
外国の人と比べて、日本人に欠けている能力に
「会話を楽しむ」ということが
挙げられることがある。
私は、必ずしもそうは思わないが
我々のそういう能力が衰えてきている傾向にあることは
認めなければならない、とも思う。
mixiの会員の皆さんにあっては、すでに充分「会話」を
楽しみ、なかに「会話の達人」もおられるかと思う。
だから、釈迦に説法なのであるが
「談論風発」、話が盛り上がる要諦は
相手の発言にふれ、こちらに新たな「コメント」が
生まれ、こちらの発言によってさらに相手に
新たなる「イマジネーション」を生ましめる、
このことに尽きるのではなかろうか。
■覗(のぞ)いて書き込む
mixiの仲間のページを覗いて
「ふ〜ん」と感心したり
「おぉ」とびっくりしたり
「おゃ、おゃ」と共感したり
いろんな思いが起こってくるが
その大半は、それでオシマイ。
「書込み」するまでには至らない。
「書込み」したい、「書込み」する、
に至るまでには一定のエネルギーが必要なのである。
ある「閾値(いきち、しきいち)」を超えることが不可欠
である。
■私の「書込み」
またもや、「前口上」が長い。
なんのことはない。ここは私の「書込み」の記録である。
自分が何を書き込んだか、そのメモであり、
相手の「反歌」を楽しみに待ったり、
そのためのページである。
もし、これがあなたの「興味」にふれたとしたら、
私が何に「反応」し、何を「コメント」したかったか、
その一端がご理解いただけると思う。
■収録期間 2005年08月26日から
2005年08月31日まで
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=35838431&owner_id=1040600
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