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2012年12月28日23:33

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■子規 「命のあまり」(3)

●2012年12月28日(金)  雨

 ▼カーディガンの替わりに、目の詰まったセーターを着ていったら
  汗ばむ。気温は上がっているようだ。

  昨日、今年最後の支払い4件に理事長印をもらい、出金・振込を
  してきた。銀行はよく混んでいて20数人待ち。
  3時をまわっても、シャッターが下りた店内で順番を待つ状態だった。

  事務所に帰ってきて、振込手数料の領収証を兼ねた「振込伝票」の
  お客様控を見ると、「翌日処理」の黒いスタンプが押されているが、
  グリーンの銀行印の押印がない。

  忙しいと、たまに、こんなこともある。
  
  きょう、もう一度銀行に行き、「領収印」を押してもらった。


 ▼昼休みは、きのうと同じ「本」を読み、仕事が終わると
  ちょっとした「納会」があり、あとまた喫茶店で「本」を読む。

  「いろいろお世話になりました。来年もよろしく」と挨拶を交わした
  けれど、ちっとも変化がない。
  変化がないのは、これはこれで又いいことだと思う。



▼講談社『子規全集 第十二巻』(昭和50年10月20日刊) から

  ■命のあまり          規
           (三)
    平凡浅薄という語が『一年有半』を罵倒したとあらば、それは承知の
   上。其(その)外に兆民居士を罵倒した覚えは毛頭ない。

   若(も)し、貧乏人に向かって「お前は貧乏だ」というのが罵倒ならば、
   金満家に向かって「お前は金持だ」というのが褒め辞(ことば)になら
   ねばならぬ。

   三途の川の渡銭が足らぬという事が罵倒ならば、佐平という爺さんが
   三途の川で百円札を出し、ツリ銭が出来無いので、今に川が渡れぬそうな、
   というたら、非常の褒め辞(ことば)にならねばならぬ。

   「大キニヲセワ生」の論法によると、是非斯(こ)ういう結論になる。
   けれども、こんな乳臭(ちちくさ)な俗論は今更(いまさら)論ずる迄も
   無い。
   三途の川の渡銭が無いということは、余(よ)は兆民居士の凋落(ちょうらく)
   を褒めたつもりであったのだ。

   原稿料の少いという事を以(も)って、これも罵倒の一(ひとつ)と見なした
   に至っては、いよいよ乳臭(ちちくさ)な俗論たることをあらわして居る。
   若(も)し今、博文館主某(あるじなにがし)より千円の原稿料を頂戴した
   著述家があったならば、其の人は兆民居士よりも五倍のえらい人であると
   「大キニヲセワ生」は断定するであろう。

   抱腹して絶倒する。

   原稿料の少いという事は、余は、著述家の不遇を憐(あわれ)んだつもりで
   あったのだ。
   いづれにしても、兆民居士はそんな愚論に耳を傾ける程の俗人ではあるまい。

   それから又(ま)た、『墨汁一滴』を読んで同情を表したが、『命のあまり』
   を読んで、あいそをつかしたという事が書いてあったと思う。
   余(よ)が病気であるについて同情を表せられる見ず知らずの人が沢山(たくさん)
   あって、余(よ)は屢々(しばしば)之れが為めに感泣するのである。
   併(しか)しながら、『墨汁一滴』を誤解して同情を表せられるようなのは
   甚(はなは)だ迷惑に感ずる。
   このような同情は早く撤回せられたいものである。

   又(ま)た或(あ)る人は、『一年有半』の成功を余(よ)が羨(うらや)んだとか、
   妬(そね)んだとか言うて居る。
   そう見られるのなら、仕方がない。要するに、是等(これら)の誤解は余(よ)
   の文章の悪いというよりも、寧(むし)ろ其人(そのひと)が余(よ)自身を
   誤解して居るのであろう。



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