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2012年12月26日20:04

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■子規 「命のあまり」(1)

●2012年12月26日(水)  晴れ

 ▼一段と冷え込む。風もあり、鈴蘭台から帰って来た同僚は
  「雪が降り始めた・・」
  と、伝えた。

  昼休み、今泉恂之介『子規は何を葬ったか  空白の俳句史百年』を読む。

  これが大変、面白い。一茶から子規までの約百年は、「卑俗・陳腐」で
  見るべき「俳句」はないとされてきたが、果たしてそうか。
  本書は、いま書いている「兆民と子規」にも連なって来る視点を提供して
  いるのだが、いまは、まず『命のあまり』をとりあげる。


 ▼講談社『子規全集 第十二巻』(昭和50年10月20日刊) から

  ■命のあまり          規
           (一)
    近頃、兆民居士が大患に罹って医者から余命一年半という宣告を
   受けた。そこで『一年有半』という書物を書いて出すと、売れるは
   売れるは、目たたく間に六七万部を売り尽くした。

   誠に近来珍しい大景気なので、しかもこれが万年青(おもと)や兎や自転車の
   流行と違うて、苟(いやしく)も一部の書物が流行するのであるから、
   何処までもほめてほめて、なおこの上にもはやらすべきであるが、
   さて如何程これがはやった処で、瀕死の著者に向うてそれを賀して
   善いであろうか、悪いであろうか。

   まさかに『一年有半』が一命を犠牲にして作ったという程の大作で
   もなし、また有形の実入りからいうても原稿料二百円という説が
   ほんとうなら、これも命がけで儲けた程の大猟でもない。

   本屋の収入はどれだけであるか、我々には分からぬが兎に角、著者
   の所謂(いわゆる)利は他人に帰し、損は己(おのれ)に帰することになったので
   あろう。
   これが若手であるなら一度名を売って置けば、後々のためになる
   という事もあるが、兆民居士の身になって見たら、死に際(ぎわ)に
   返(かえ)り咲的の名誉を博するよりも寧(むし)ろ、薬代の足しにで
   もなる方が都合が善いかも知れない。

   苦しい息の下で筆を取って書いた処で、死にがけの駄賃がやっと
   百か二百、それを診察料に払って仕舞えば差引残りが六文にも足る
   まい。それでは三途の川の渡し銭も此(この)頃の物価騰貴で高く
   なったから払えぬと来れば誠にはや気の毒至極なものである。

   『一年有半』が売れたというのは題目の奇なのが一因であるが、
   それを新聞でほめ立てたのが大原因をなしたのである。死にかかって
   居る病人が書いたというものをいくら悪口ずきの新聞記者でも
   真逆(まさか)に罵倒するわけにもゆかず、恰(あたか)も死んだものが
   善人も悪人も一切平等に「惜哉」とほめられるような格で、『一年有半』
   も物の見事にほめあげられたのである。

   此(この)間にあって、若(も)し『一年有半』を罵倒する資格(チト変な
   資格であるが)があるものを尋ねたら、恐らくは予(よ)一人位であろう。

   死にかかって居るということは両方同じことで差引零となる。
   ただ先方が年齢に於いても、智識に於いても先輩であるだけが評しにくい
   所以(ゆえん)であるが、その替(かわ)り病気の上に於いては予の方が
   慥(たしか)に先輩である。病床に於(おけ)る苦痛や又は其(その)苦痛の
   間に於ける趣味の経験に就(つい)ては五年間の月日を費(ついや)して
   研究した予に及ぶものは他に無いであろうと信じる。

   といって見た所で何も自慢する程の研究でもないが、こんな時にでも
   意張(いば)らねば、外に意張る時がないから意張って見る位に過ぎぬ。
   誠に我ながら兆民居士に上越す程の気の毒さである。


    扨(さ)て、『一年有半』を罵倒する程の資格があるならば罵倒してみよ
   と言われたところで何も罵倒する程の書物でもない。さればと言って
   固(もと)より真面目になってほめる程のものでもない。評は一言で尽きる。
   平凡浅薄。仮りにこの本を普通の人が書いたものとしても誉めるに足らぬ。
   ただそれを口に出すものが無いばかりのことだ。

   実行的の人が平凡な議論をするのは誠に頼母(たのも)しく思われるが、
   奇行的の人が平凡な議論をするのは嘘つきがたまたま真面目な話をした
   ようで、何だか人をして半信半疑ならしめるところがある。兆民居士は
   今迄、奇行的の人と世間に思われて居た人である。

   『一年有半』のうちに、大阪の義太夫を評したところがいくらもある。
   これはさすがに兆民居士が他の俗人の仲間より頭をぬき出して居るところ
   であるが、併(しか)し義太夫以上のたのしみを解せんところは、矢張(やはり)
   根本に於て俗人(ぞくじん)たるを免(まぬか)れん。

   居士は学問があるだけに、理屈の上から死に対してあきらめをつけることが
   出来た。今少し生きて居られるなら「あきらめ」以上の域に達せられることが
   出来るであろう。
       (新聞『日本』  明治34年11月20日 掲載)

 ▼(註)中江兆民は、明治34年12月13日に没した。
     正岡子規が「命のあまり」を発表しているとき、
     兆民は存命中で、子規はその上でこの文章を発表している。

     署名は「子規」ではなく、「規」を用いている。


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