●2012年12月20日 (木) 晴れ
▼あすは冬至とか。
昼休み、『一年有半・続一年有半』を読む。
読みながらでも、一方で「子規」を読みたいと思う。
虚子は小説家になりたかったそうだが、
子規もまた、政治家にも、哲学者にも、小説家にも
なりたかった。
そして、押しも押されもせぬ「俳人」になった。
▼きのうは、高浜虚子『子規居士と余』を読んだ。
子規没後、子規について多くのものが書かれた。
『子規居士と余』は、明治44年(1911年)12月号『ホトトギス』に初回が
掲載され、大正4年(1915年)3月号まで、14回にわたって連載された。
その最終回「十四」は、明治35年9月13日から19日のことを書いて
いる。
▼このころには、子規は足に水がたまり、少しでも動かすと全体に大震動が
あったかのように激痛が走り、叫喚した。
その烈しい叫喚に、家人や周りの者は戦々兢々としていた。
9月13日、妹・律が、膝を立てた子規の足が動かぬように、手を添えていた。
何かの用があり、律が立ったとき、虚子は代わりに、子規の足を支えた。
▼「臨終に近い病人の床には必ず聞こゆる一種の臭気が鼻をついた。
大小便を取ることも自由でなかったのでその臭気は随分烈しかった。
『臭いぞよ。』と居士は注意するよう余に言った」
『病牀六尺』九月十四日、
足あり、仁王の如し。
足あり、他人の足の如し。
足あり、大盤石の如し。
・・・・
『病牀六尺』九月十五日、
芭蕉が奥州行脚の時に、尾花沢といふ出羽の山奥に宿を乞うて、
馬小屋の隣にやうやう一夜の夢を結んだ事があるさうだ。
ころしも夏であったので、
蚤 虱 馬 の し と す る 枕 許
といふ一句を形見とした。 ・・・
▼翌朝、子規は口授し、虚子がこれを書き写した。
「朝、蚊帳の中で目が覚めた。
なお半ば夢中であったが、おいおいというて人を起こした。
次の間に寝ている妹と座敷にいる虚子とは、同時に返事をして
起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。
雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際、余は口の内に一種の
不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く湿いのない事を感じたから、
用意のため枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒ほど食った。
何ともいえぬ旨さであった」(後略)
『九月十四日の朝』と題されたこの文章は、すぐ印刷にまわされたのが
『ホトトギス』第五巻第十一号に載った。
子規の死の翌日、9月20日のことで、「写生文」を唱えた子規の
最後の文章になった。
▼9月18日の夜も、虚子は泊りであった。
そして、夜半。子規は息を引き取った。
「余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門を出た」
▼「大正三年二月十三日夜十一時半擱筆」と記された、14回にわたる
『子規居士と余』は、のち「子規の死」の出発点となったのだと、わかる
とともに、しみじみとした気分になった。
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