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2012年12月17日23:38

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■兆民と子規(13)  無冠・無位の「平民」

●2012年12月17日 (月)  曇り

 ▼『一年有半』の内容であるが、「青空文庫」には収められていない。

  ●無冠・無位の「平民」
   ・http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/nakae.html

   ▼国も個人も上昇欲求に支配されていた明治の時代に
    無位無冠の「平民」として生きる覚悟に徹した兆民とは、
    どんな人間だったのだろうか。
    その素性を探ってみよう。

   ▼中江兆民は歴史的には日本における最初の唯物論者として、
    そして又自由党初期の指導的理論家として記憶されている。
    しかし、一般に彼の名前は軽妙な毒舌家として、或は明治期の
    代表的な奇行家として知られている。

   ▼中江兆民に対する多くの同時代人の評価は「直言の士」という点で
    一致していた。
    例えぱ、大石正己は「中江君は実に単刀直入で、思う所を云い、
    為さんと欲する所を為すという点に於て我邦の絶品であった」と
    書いているし、後藤象二郎は中江を評して、彼は三国志に出てく
    る禰衡」だと言っていたという。

   ▼禰衡は酒興に名をかり、全裸体となって宴席上に踊り出て、権勢並ぶ
    ものない曹操を罵倒した人物である。
    この後藤の批評は中江を知る者の共感を集めたらしく、中江=禰衡論は
    広く人口に膾炙するところとなっている。


 ●明治34年、中江兆民は55歳になっていた。
  この年の3月に商用で大阪に旅した中江は、仕事を終えて休養のため
  和歌浦に遊び、ここでノドに激痛を覚え呼吸困難に陥るのだ。
  すぐに大阪に戻って医師の診察を受けた彼は、ノドの癌と診断され、
  余命一年半と宣告されるのである。

  5月末になると、窒息を避けるために気管を切開する手術を受け、
  気管に銀管を挿入されている。この結果、彼は言葉を話すことが出来なく
  なり、筆談で意志を通じることになる。

  食物も固形物を受け付けなくなったので、豆腐などを常食とするように
  なった。

  襲いかかってくる痛みを忘れるためには、ペンを取って原稿を書いている
  のがよかった。
  それで彼は、死後に発表することを予定して「生前の遺稿」と題する本の
  執筆に取りかかる。

  内容はその時どきに思いつくことを題材にした随想録で、
  好きだった義太夫や芝居について論じるかと思えば、
  政治・経済の時事問題や人物論に触れ、新時代に生きる日本人の
  心得について書くというふうだった。

  このかなりの分量がある原稿を、彼は8月のはじめには完成しているから、
  相当乗り気になって筆を進めたことが分かる。

  兆民がこの原稿を見舞いに来た弟子の幸徳秋水に示したところ、
  幸徳はこれを博文館に持ち込み、翌月の初めには「一年有半」という題で
  出版されることになった。

  すると、これがベストセラーになるのである。

  病床で痛みと戦いながら書いた本だから、平生の持論を書き綴っただけの
  ものである。
  だからこそ、この本には中江兆民という人間の実像が過不足なく現れている。

  例えば、彼は自分の病気についてこう書くのである。

   「自分は今業病にかかっている。東京の自宅には、借金取りが来たり
    執達吏が来たりしている。
    このように内憂外患が降りかかるのは、自分が明治の社会に不満で、
    筆や口で攻撃してきた罰が当たったのだろう。
    だが、自分は、これからもへこたれることなく罵詈病を続けるつもりだ。
    罵詈病こそ、自分の宿業なのだから・・」


●「一年有半」を読んでいて、調子が変わってきているなと思うところもある。
 例えば、兆民が礼節を守ってまじめに生きることを説いている点で、
 第一議会にドテラを着て出席した兆民が、今や婚礼・葬式に着流し姿で
 出席する者が増えてきた現状を嘆いているのだ。
 彼は一般庶民に礼節を守らせるのも為政者の心がけるべき点だといっている。

●真面目に生きよというテーゼは、この本の各所で語られている。
 欧米の人士ではニュートンやラボアジエ、日本人では井上毅・白根専一を
 真面目人間の典型にあげて敬意を払い、繁栄する国の国民はみな真面目だと
 教訓をたれる。

●こうしたくだりを読んでいると、中江兆民という男の本質が静かな合理主義者だった
 ことに思い当たるのである。
 21歳で上京するまでの兆民は人と争うことの嫌いな「君子」で、女児のよう
 に温和だった。実業に従事するようになった45歳以後は、酒を断ち身を
 慎んで良識に富んだ模範的紳士として行動している。

●奇人の名をほしいままにした壮年期にも、彼はしばしば旅に出て孤独になる
 ことを求めたものだった。
 その理由を彼は、自分には昔から仙人志願の夢があるからだと語っている。
 「虚無海上の一虚舟」とは自らを規定した彼の言葉である。
 (松本清張が中江兆民の評伝を書いたのも、「虚無海上の一虚舟」という言葉に
  惹かれたからだった)

●彼がマイホーム人間だった理由も、「虚無海上の一虚舟」という孤絶感から
 来ている。
 時代に同化できず孤絶感を抱いて生きる人間は、マイホーム主義者になる傾きが
 ある。
 森鴎外もそうだったし、中江兆民もそうだった。



●「一年有半」の出版後、兆民の病状は悪化した。そんななかで彼は次の著作に取りかかるのだ。このときの様子を幸徳秋水は「続一年有半」の序文に次のように書いている。「日本の名著・中江兆民」(中央公論社)には、その口語訳が載っているので、そこから引用してみよう。

「切開した気管の呼吸はたえだえであり、身体は鶴のように痩せているが、ひとたび筆を取れば一潟千里の勢いである。奥さんをはじめみんなが、そんなにお書きになると、とりわけ病気にさわりましょう、お苦しいでしょうと言っても、書かなくても苦しさは同じだ、病気の治療は、身体から割り出したのでなく、著述から割り出すのだ、書かなければこの世に用はない、すぐに死んでもよいのだと答えて、セッセと書く。

疲れれば休む、眠る、目がさめれば書くというふうであった。病室は廊下つづきの離れで、二部屋の奥のほうに、夜も一人で寝ておられる。半夜夢醒めて四顧寂蓼として人影なく、喞々たる四壁のこおろぎの声を聞くと、すでに墓場にでも行っているようで、心が澄みわたって哲理の思考にはもっともふさわしいから、たいていは夜中に書くとのことであった。

そして日に一時間か二時間かで、病気の悪い時には二、三日もつづけて休まれたが、九月十三日からはじめて、わずかに十日ばかりで、二十二、三日には、はや完結を告げていた。いまさらながらその健筆、じつに驚くべきである。」


こうした無理がたたって病勢は急速に進み、兆民はもう仰向けになることも、横を向くことも出来なくなった。喉頭部が腫れ上がったため、俯せになり両手を枕に置いて頭を支えているしかなくなったのである。彼は「続一年有半」完成後、三ヶ月と持たずに永眠している。

「続一年有半」には、「一名無神無霊魂」という副題がついている。
副題が示す通り、これは彼の信条とする唯物論哲学を述べたものである。彼の唯物論はフランス留学中、フランス唯物論の影響を受けて以来のものだと思われるが、僅か十日で書き流したものだから、中学生にも分かるような平易な内容になっている。

われわれが生きている宇宙は、最初からこうした形であったのであり、誰が創造したものでもない。宇宙を形成する元素は、転々と形を変えて存在し続けるから、この宇宙に終わりというものはない。物質は不増不減、宇宙は無始無終、永遠に存在するのがあるとしたら、元素によって組成された「モノ」だけである。

人間も元素で組成されている。人間の本体は物質で、精神はその作用に過ぎない。だから、人間が死んでも霊魂は残るというような考え方は、唐辛子がなくなっても辛みは残る、あるいは太鼓がなくなっても音だけは永遠に残ると言うに等しい妄言なのだ。

人が死ねば、その意識は無に帰して痕跡をとどめない。シャカ・イエスの霊魂は死ねば忽ち無に帰するが、「路上の馬糞は世界と共に悠久で有る」。生きているうちは自己社会の改善につとめ、死んだら綺麗さっぱり無に帰する。これ以外に入間の生き方はあるか。


「続一年有半」は、こうした単純明快な原理を比喩を用いながら多方面に押し広げるのである。

この世界は、見た通りのもの、これだけのものでしかない。人間社会を規制する永遠の道や規範のようなものはない。神や仏もいないとしたら、社会は誰によってでもなく人間自身の努力によって良くして行くしかないではないか。彼は癌にかかって余命三ヶ月足らずという段階で、泰然としてわが国最初の唯物論哲学入門書を書き、ありもしない絶対者などに頼ることなく、自力で世界を変えていくことを世に訴えるのだ。


死が目前に迫っているにもかかわらず、彼は個人的な安心立命の必要やら、「死後の自分の都合」を考慮に入れて思考しなかった。人類のために甘い夢物語を語ることもなかった。彼は所与の単純平明な事実を基盤とし、万人の納得する公理に従って考えただけである。その思考の赴くところがどうなろうと、その結論から逃げなかったし、その帰結をごまかしたりしなかった。


人間の問題は人間自らの手で処理し、「自己社会の不始末」は自分の手で処理して行くしか方法はない。すべては自分の手で播いたタネである。責任を他へ転稼する訳にはいかないのだ。

唯物論は、合理主義・純理主義の行き着く先にある哲学である。兆民はためらうことなくこの哲学を受け入れたが、唯物論を受容するには、精神や魂の問題についてある種の見切りが必要だし、人生観上のいさぎよさも求められる。いさぎよさという点で、兆民ほど徹底していた人間はほかになかった。


唯物論を受け入れ、自己と世界に対してキッパリ見切りをつけたときに、内面の静謐が訪れる。物もクリアに見えてくる。兆民が明治という時代をリアルに眺め続けることが出来たのも、唯物論者の静謐な目があったからだった。


元々、中江兆民は孤独を好む物静かな人間だったから、啓蒙家・民権運動家として活動を続けるためには、本来の自分を踏み出したところで別の人間になる必要があった。シャイで小心な人間は、追いつめられると大胆な行動に出る。それと似た心理で、彼にとって異界と感じられる政界にあって、兆民は本来の性行とは反対の奇人の役を演じ続けたのである。時代に対する怒りが激しくなるにつれて、彼の奇行も激しくなっていった。

彼の奇行がしばしば行き過ぎてマゾヒズムを感じさせるほど陰惨な色彩を帯びる。不自然な自己劇化を繰り返したためである。

学生時代の私は、啓蒙家・民権運動家としての兆民に目を奪われて、彼が二重底の人間だとは思い至らなかった。中江兆民には、マスコミをにぎわす奇行家という面と物静かなマイホーム主義者という面があり、前者は後者によって支えられていたのである。21歳で上京するまでの兆民と、政界から退いて実業に従事した45歳以後の兆民は謹厳実直なマイホーム主義者だった。彼の生涯は始めと終わりで繋がっている円環型の構造をしており、奇人中江兆民はその上に咲いたあだ花だったのである。


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