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2012年12月16日09:44

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■兆民と子規(10)  復本一郎『子規とその時代』

●2012年12月16日(日)  晴れ

 ▼「兆民と子規」は、私にとっては『文芸批評』ではないし、『文芸批評』など、
  初手から私にはかなわぬことである。

  目的は私自身の問題、そう遠くない「自分の死」つまり、私の「死によう」
  「生きよう」の問題と、兆民や子規が間近に迫った「死」に臨んで、何を考え
  死んでいったか、また「死」に向かって生きていたか、それが私の「兆民と子規」へ
  の関心である。
 
 ▼復本一郎『子規とその時代』の「はしがき」に、こう書いてある。
   
     研究者は能弁であってはいけない、というのが私の持論である。
     私は、私流の勝手な子規への思いを語ってはいけないのだ、と常に
     自戒している。

     私の子規論は、俳人の子規論や、評論家の子規論や、小説家の子規論と
     同じであってはあってはいけないと思っている。
     可能な限り子規自身に、あるいは子規周辺の人々に子規を語ってもらう
     べきだと思っている。

     従来の子規論に眼を通していると、子規が論者に都合のよいように歪め
     られているように思われるところが少なくない。

     例えば、高浜虚子著『朝の庭』(改造社、大正十三年)の中に収められている
     「病床の子規居士」なる文章の冒頭を見てみよう。

        子規居士の家庭は淋しかった。病床に居士を見舞ふた時の感じを
        いふと、暗く鬱陶しかった。
        先ず表戸を開けるとリリリンと鈴がなって、狭い玄関の障子が寒く
        閉まって居るのが眼にとまる。

     子規の母堂八重をして「升(のぼ)は、清さんが一番好きであった」(子規居士と
     余)と言わしめた、その虚子が綴る子規の家庭の雰囲気である。
     こんな現実から目を背けて、子規をやたらと美化することは、私には
     できない。

 ▼「升(のぼる)」は子規の名であり、「清さん」とは、子規が「きよし」から
  号を与えた「虚子」その人である。

  以下、復本一郎『子規とその時代』の「第一章 私註『病牀六尺』」から引用する。

   ■子規は、境遇が似ているということもあり、中江兆民、そしてその著作『一年
    有半』に大きな関心を示している。
    中江兆民は、「革命思想の鼓吹者」(門人幸徳秋水の言)。
    弘化4年(1847)、土佐高知城下新町に生まれ、明治34年(1901)
    12月13日、小石川武島町の自邸に没している。享年五十五。
    板垣退助の弔文朗読に始まる、宗教色を払拭した、その葬儀に会した者、
    五百余名という。
    秋水の号を兆民より譲られた幸徳秋水は、兆民の死後『兆民先生』(博文館、
    明治35年)なる一書を編んで、兆民を偲んでいる。
    この書、兆民の人となりが髣髴として、すこぶる興味深い。
    例えば、同郷ということもあろう、坂本龍馬を崇拝していた兆民の左のごとき
    言葉を紹介している、といった具合である。
    慶応元年(1865)、長崎での出来事である。

      予は当時少年なりしも、彼(龍馬)を見て何となくエラキ人なりと
      信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの
      言語持て、『中江のニイさん煙草買ふて来てオーせ、』などゝ命ぜら
      るれば、快然として使ひせしこと屡々なりき。彼の眼は細くして、
      其額は梅毒の為め抜上がり居たりき。
    
    と伝えている。その兆民に、明治34年3月、癌腫(咽頭癌)が発見された。
    耳鼻咽喉専門医師堀内某は、兆民に、「一年半、善く養生すれば二年を保す可し」
    と宣告する。その時の兆民の感懐は、

       一年半、諸君は短促(短期間)なりと云はん、余は極て悠久なりと
       曰ふ。
       若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり。五十年も短なり。百年も
       短なり。
       夫れ生時限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す。
       短には非ざる也。始より無き也。
       若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足ら
       ずや。

   というものであった(『一年有半』)。



 ▼子規が、10月15日『仰臥漫録』で、

    「しかしながら居士はまだ美といふ事少しも分らず、
     それだけわれらに劣り申すべく候。 理が分ればあきらめつき
     申すべく、美が分かれば楽み出来申すべく候。
     杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれども
     どこかに一点の理がひそみ居り候。
     焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処、
     何の理屈か候べき」
     (註narato:綴り方は岩波版の通りとし、角川版のようにに句読点を入れた)

  と、問題にしたのは、兆民の「為す有りて且つ楽む」この点についての批判で
  ある。

  『一年有半』には、
     「余の目下の楽は、新聞を読む事と、一年有半を記する事と、
      喫食する事との三なり」
  との記述があり、これも『仰臥漫録』に書かれている子規に「相似たり」と
  言えるだろう。

 ▼「相似たり」であるが、子規は何にこだわったのか。

  また、前書から引用する。

  ■『一年有半』が堺市の寓居で擱筆されたのが、同年8月3日。
   8月4日、その稿は、西下下秋水に手渡される。
   兆民としては、当初、「我瞑目の後、汝宜しく校訂して以て公にす可し」との
   希望を伝えたのであったが、秋水の「請ふ直ちに之を刻するを許せ」との願いで、
   生前の刊行ということになったのである。
 
   先に示した秋水の著作『兆民先生』の巻末部に、
   『一年有半』第二十二版の広告が載っているが、そこには
   「初版以来既に印刷すること二十万部」との惹句が記されている。
   これは、大変な数である。

   例えば、明治33年12月に出版の、子規が序文を書いている叙事文集
   『寒玉集』ホトトギス発行所)。
   この『寒玉集』は「一千部を印刷して、今尚ほ残部あり」(明治36年10月
   12日付『東京朝日新聞』)といった状況であった。
   そんな状況下での二十万部という発行部数である。
   桁違いに多くの読者を獲得したということである。
   その読者の一人に子規がいたのであった。

  ■兆民が『一年有半』の中で、「一年半てふ、死刑の宣告を受けて以来、
   余の日々楽とする所は何事ぞ」と述べているが、子規の側からの争点は、
   ここである。

   旦夕に迫った有限の時間をいかに「楽む」か、ということである。
   子規は、有限の時間(命)への「あきらめ」は「理」によって獲得し得るが、
   「楽み」は、「美」を解することによってのみ手中に収め得るというのである。
   

 ▼公開はしていないが、子規は、10月15日の『仰臥漫録』でそう言って、兆民を
  批判したのである。これは、いわば相手に告げぬ「挑戦状」みたいなものだ。
  そして、子規が仕掛けた「兆民と子規」はここに始まる。

  子規は『一年有半』をまだ読んではいなかったが、兆民の「のどぶえ」はどこに
  あるかと窺い、それは「理」ではなく、「美」においてであるとして、そこに噛み
  ついた訳である。
  その例証として挙げるのは、『一年有半』の次の文章である。

     余固より産を治するに拙にして、家に逋債(負債)有りて貯財無し。
     而して斯重症に罹る。悲惨と云はば悲惨なり。
     此夕、余笑ふて妻に請て曰く、卿(君)年已に四十余、
     余死したる後ち復た再縁の望有るに非ず、
     余と倶に水に投じて直ちに無事の郷に赴かん乎、如何と。
     両人哄笑し、途中南瓜一顆と杏果一籠を買ふて寓に帰る。
     時に夜正に九時。

 ▼これについて、『子規とその時代』では、次のように書かれている。

  ■兆民五十五歳、妻彌子四十六歳。
   仲睦まじい二人の関係が髣髴とする描写である。
   が、子規は、この二人のささやかな「楽み」に対して、
   「楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居候」と
   評するのである。

   「杏を買ふ来て細君と共に食ふは楽み」に至までの、
   やや理屈っぽい記述に拘泥しての批評と見るべきなのであろうか。
   兆民夫妻の日常茶飯事の「楽み」の中に、子規言うところの「美」との
   かかわりから生じる「楽み」がないことは、言わずもがなである。

   が、このあたり、似たような境遇にある子規の「楽み」と、兆民の「楽み」との
   間に懸隔があったということなのかもしれない。
   二人の二十歳の年齢差も作用しているかと思われるところの「楽み」の質の
   違いである。兆民は、日々の楽しみを、

    「余毎日吸入を行ひ薬を服し、若しくは一年半を記し、
     其間時に庭に下り、餌を池に投じ、以て楽みと為す」

   とも記している。

   このような「楽み」も、十分に肯定されてしかるべきと思われるが、
   三十五歳の病臥のままの子規には、できない相談であり、
   それゆえになおさら反発したくなる、ということであったのであろう。

 ▼福田和也『贅沢な読書』では、『一年有半』のこの部分は、もう少し前から
  引用されている。

     堺市、浜寺風景 甚(はなはだ)佳なり、海浜松樹乱立して、
     其下縦横歩行して涼を取る可く、大に須磨及び東海道中、
     平塚に似たる有り、 海汀一酒肆旅館を兼ねる者一力と畏云ふ。

     構築頗(すこぶ)る広壮、欄に倚(よ)りて一望すれば、水天彷彿の際、
     神戸及び淡路を看取するを得、余一夕妻と倶(とも)に歩して海浜に
     至る、

     偶(たまた)ま天雨を催し、黒雲西方を蔽(おお)ひ、波浪岸を拍(う)ち、
     鞺鞳(とうとう)の声、人をして或は意気壮(さかんな)らしめ、或は
     凄然(せいぜん)哀を催さしむ、

     余既に不治の疾を獲(え)て所謂(いわゆる)一年半の宣告を受けて、
     而して妻日夜余に侍(じ)して薬餌の労を取るも、是れ固(もと)より
     治癒を求むるに非(あら)ずして、唯死期を待つのみ、

     余や男子、且つ頗(すこぶ)る書を読み理義を解する者、箇註(このうち)
     又自ら楽地有りて、時々大疾の身に在ることを忘するる至る、
     妻の如きは女性、近来頗(すこぶ)る余の薫化を受け、快を目前に取る
     の術を得る有りと雖(いえど)も、而かも余の如く自得悠揚たる能はざるは
     自然の道理也


 ▼この次が、先程の引用部分である「余固より産治するに拙にして」に続くの
  である。
  「鞺鞳(とうとう)」とは、鐘や鼓の音のことである。

  兆民が「東洋のルソー」と呼ばれるのは、ルソーの『社会契約論』の翻訳は
  日本語でなく中国語(漢文)に訳され、そのため『民約論』は漢字文化圏の
  中国、朝鮮、ベトナムなどでも、その美文も甲斐あってアジアで広く「啓蒙書」と
  して読まれたからである。

  兆民は、「文学者」ではなかったが、フランス語も漢文もよくできた。
  子規を東京に送り出し、終生それこそお世話になった、叔父・加藤恒忠(拓川)は
  兆民の塾でフランス語を学んでおり、フランス留学後、ベルギー公使などを務めた
  人物で、叔父からは兆民の話を聞いたこともあろうかと思う。

 ▼どうでもいいと言いながら、とんでもなく長くなった。

  「杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに
   一点の理がひそみ居候 」

  と、子規か批判した「杏」の件とは、福田和也『贅沢な読書』の要約では、

    「要するに、おカネの管理がなってなくて、何の蓄えもなく、負債ばかりが
     あって、金がない。
     だから奥さんに、自分が死んだら貯金も何もないし、お前もいい歳だから
     再婚できないだろう、だったら一緒に死のうか、というようなことを云って
     いる。
     それを何とか笑って、南瓜一個と杏果を買って帰ると、夜九時だったという
     文章ですね。」

  となる。


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