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2012年12月11日23:27

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■兆民と子規(4) ウィキペディア「兆民と子規」 付録:兆民サイト

●2012年12月11日(火) 晴れ

 ■中江兆民

 ▼中江兆民は、名は篤介・篤助(とくすけ)と云い、「兆民」は号。
  1847年12月8日(弘化4年11月1日)高知城下の土佐郡北街山田町で生まれた。
  兆民が満14歳になる前の、1861年(文久元年)2月に父が死去し、5月に
  家督を相続した。身分は足軽であった。翌1862年(文久2年)に、藩校の
  文武館が開校し入門、外国語なども学ぶ。1865年(慶応元年)9月に、藩が派遣
  する留学生として長崎へ赴く。このとき郷土の先輩である坂本龍馬と出会った。

 ▼24歳になる年、1871年(明治4年)には廃藩置県があり、土佐藩の身分制から開放
  され、兆民は明治政府が派遣した岩倉使節団に、司法省9等出仕として採用された。
  同年の11月、横浜から出発し、アメリカからフランスへ渡った。フランスでは
  パリ、リヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。
  また、生涯、親交のあった井上毅とは1872-73年に、司法省の西洋視察団として、
  フランス中心に司法制度の調査研究を行っている。

  横浜を発ってから3年後の1874年(明治7年)6月に帰国した。
  8月に家塾の「仏蘭西学舎」(のちの仏学塾)を開いた。塾では語学や
  思想史のほか、漢学も重視した。
  18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である
  『民約論』の校訂にも携わり、民権論の教授に務めた。

 ▼1875年(明治8年)には、東京外国語学校の校長となるが、徳育教育を
  重視する兆民は教育方針をめぐり文部省と対立。すぐに辞職。
  しかし、元老院副議長の後藤象二郎より、同院の権少書記官に任命された。
  調査掛に配属され、調査課、調査局翻訳掛を経て、翌1876年(明治9年)には
  国憲取調局掛を兼ね、井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行った。
  勝海舟とも知り合い、縁談を持ちかけられるが破談した。

 ▼翌1877年(明治10年)に同職を辞職。この年に西南戦争が起こっている。
  翌々年の1879年(明治12年)に、高知県士族の娘の鹿と結婚するが、次の年には
  離婚している。兆民は、満32歳になろうとしていた。
  
 ▼「東洋のルソー」とも言われた兆民は、幼名を竹馬と云った。
  「東洋の・・」と言われるのは。『民約論』は日本語訳でなく、漢文に
  訳され、漢字文化圏で広く読まれたからである。

  号は青陵、秋水、南漁仙漁、木強生、火の番翁などを用いたが、40歳になる
  明治20年(1887年)以降は、専ら「兆民」と号した。

  「兆民」とは「億兆の民」の謂いで、すなわち平民を意味する。また、自分が用い
  ていた「秋水」の号は、弟子・幸徳伝次郎、つまり幸徳秋水に譲った。

 ▼1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙では、大阪4区から出馬した。
  自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、「余は社会の最下層のさらにその下層におる
  種族にして、インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民。
  昔日、公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」と自称した。
  兆民は、被差別部落民らの支持を得て、1352票を獲得して一位で当選。
  国会議員となる。

 ▼1891年(明治24年)9月に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を
  務めたが、自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り、
  2月に、わずか一年で議員を辞職した。

  野に下った後は、北海道の小樽へ移り、実業家として活動したり(明治24年)、
  山林組を起業して札幌で材木業を始めた(明治25年)。
  また、鉄道事業にも熱心で、1894年(明治27年)の常野鉄道をはじめ、毛武
  鉄道のほか、数多くの鉄道事業の発起人となっている。

  そして、1897年(明治30年)には中野清潔会社を起し、1898年(明治31年)
  には、群馬の遊郭再設置運動など、虚業的とも評される数々の事業や政治的活動を
  手がけようとするが、いずれも失敗している。

 ▼1897年(明治30年)12月には、国民党を結成して政界復帰を望むが失敗。
  1900年(明治33年)8月には、伊藤博文と憲政党(旧自由党)の合意による立憲
  政友会の成立に対して、自由党の魂を、敵である藩閥政治の首魁に売るものだと
  憤慨し、反政友会勢力であった近衛篤麿(貴族院議長)らの国民同盟会に参加した
  りした。

 ▼しかし、兆民はその年の秋ごろから喉の異変を感ずるようになり、11月には止ま
  らぬ咳に苦しんでいた。
  翌1901年(明治34年)3月には、商用で赴いた大阪で、咳に加えてひどい痛みを
  覚えた。4月に診察を受けると、結果は喉頭癌であった。
  「あとどれくらい生きられるか?」という兆民の問いに、医師は
  「一年半、養生して二年」と答えた。

  こうして兆民の『一年有半』はその年の9月に、10月には『続一年有半』が
  出版されが、兆民自身は、その年の暮れ、医師の予告の半分に満たない、12月
  13日、満55歳と5日目に生涯を閉じた。

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 ■正岡子規

  ▼正岡子規は、名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、
  のちに升(のぼる)と改めた。
  1867年10月14日(慶応3年9月17日)、松山伊予国温泉郡藤原新町
  (現、愛媛県市花園町)で生まれた。
  父、松山藩士・正岡常尚と、母、八重の間に長男として生まれた。
  母は藩の儒者・大原観山の長女で、子規が5歳になる1872年(明治5年)、
  父が没したため家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。
  外祖父・観山の私塾に通って、幼い頃から漢書の素読を習った。

 ▼1880年(明治13年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学。
  1883年(明治16年)、同校を中退。叔父・加藤恒忠(拓川)に懇願して、
  上京し、旧藩主・久松家の書生部屋に寄寓する。受験勉強のため共立学校
  (現・開成高)に入学した。またこの時、叔父・拓川の紹介で陸羯南に会った。
  子規、16歳。
  
 ▼1884年(明治17年)、久松家の給費生となり、9月に東京大学予備門(のちの
  一高、現・東大教養学部)に入学し、久松家・常盤会寄宿舎に移る。
  1885年(明治18年)春、哲学者になることを志望。7月、数学の欠点で学年
  試験を落第。この頃、秋山真之を通じて歌人・井手真棹を訪ね和歌の指導を受ける。
  1886年(明治19年)、同宿の友人と足繁く寄席に通う。10月、神田裏猿楽町に
  転居。この頃、野球に熱中する。またボートも漕いだという。
  1887年(明治20年)、7月に帰省し、俳人・大原其戒を訪ね、翌月より主宰誌に
  投句。9月、はじめて小説『竜門』を書くが、未完に終わった。
  1888年(明治21年)、校長の官僚主義的教育に反抗、寄宿舎の「賄征伐事件」に
  加わる。8月鎌倉・江ノ島方面に遊び、鎌倉ではじめて喀血。子規、21歳で
  ある。

 ▼そして、翌1889年(明治22年)5月9日の夜。
  子規はまた突然、喀血した。翌日、医者の診察を受け、肺病と診断される。
  その日の午後、九段の会合に出掛け帰ってきて、再び喀血。

  このとき、時鳥(ホトトギス)の句を四、五十句作る。
  そして、はじめて「子規」と号した。のちに「喀血三旬、子規と号す」と
  自身が書いているが、「鳴いて血を吐くホトトギス」と言うように、ホトトギス
  (カッコウ)は、子規・時鳥・不如帰・郭公・閑古鳥とも書く。
  子規は、後に、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(
  おち ところのすけ)など別号も用いた。

 ▼1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、翌年の
  1891年(明治24年)には、国文科に転科した。
  東大予備門では同い年の夏目漱石や、南方熊楠や山田美妙らの同窓にいた。
  この年の12月、本郷駒込追分に移り、文学で身を立てる覚悟で面会謝絶し、
  小説『月の都』の執筆に没頭した。

 ▼翌1892年(明治25年)2月、『月の都』を脱稿し、幸田露伴を訪ね批評を求め
  た。しかし、露伴の批評芳しからず、小説家志望を断念、俳句に没頭するように
  なる。

 ▼その年の7月、学年試験に落ち退学を決意。
  大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で、陸羯南の新聞『日本』の記者となり、
  11月、家族を呼び寄せた。
  翌1893年(明治26年)に『獺祭書屋俳話』を『日本』連載し、俳句の革新
  運動を開始した。子規、26歳である。

 ▼1888年(明治21年)、21歳で喀血してのち、
  1896年(明治29年)、29歳から、
  1902年(明治35年)、35歳で亡くなるまでの間、
  子規は、ずっと床に臥したままであった。
  
  その間、新聞『日本』に随筆を寄せてた。
  『松蘿玉液』のあと
  『墨汁一滴』が、死の前年、明治34年1月16日〜7月2日に、
  『病牀六尺』が、亡くなる年の明治35年5月5日〜9月17日に
  掲載された。

  『病牀六尺』の9月17日に、
    俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか
  という歌が掲載された。

  その2日後の9月19日に子規は亡くなったが、
  『墨汁一滴』の連載が終って2ヶ月たったころ、つまり死の前年
  1901年(明治34年)9月、
  子規は公表するつもりのない手控えとして、『仰臥漫録』を書きはじめた。

  『墨汁一滴』や『病牀六尺』は口述筆記で、妹の律や弟子が代筆しているものが
  多いのであるが、『仰臥漫録』は子規自筆である。原本は土佐の俳人から贈られた
  土佐半紙に書かれた二冊本で、一冊目の最初の日付は、
  明治34年9月2日になっている。

  子規が亡くなる前年の、
  この1901年(明治34年)9月と言えば、
  それは、兆民の『一年有半』が刊行された月でもあった。


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