ビョークの新作がヒッソリとリリースされていることを知り、かつてほど熱を上げて彼女の音楽を聴いてないことに罪悪感を覚えつつ…
前回のマドンナと関連付けたりして、もうしばらく語らせてください。
それまでのポップ&セクシー路線では立ち行かなくなっていた90年代のマドンナ。一方では、神秘的なオーラを纏って華々しくソロ・デビューを飾っていたアイスランドの歌姫ビョーク(今ほどエキセントリックではなかった)。
自分とは正反対の魅力を持つビョークを、マドンナが次世代のロール・モデルとして選んだとしても不思議はない。というのも、そのころのマドンナはネリー・フリーパーやマーク・スパイク・ステントなど、わざわざビョークと同じプロデューサーを起用したり、ビジュアル・イメージをそれまでとは変わってエキセントリックに仕立てたり、とにかく後ろを追い掛けてるような印象があった。
もちろん、一般的な知名度やセールス面ではマドンナが圧倒していたけれど、ともすればポップ・マーケットからはみ出さんばかりのビョークの底なしのクリエイティビティーに、あるいは自分に無いものとして渇望の眼差しを向けていたのかもしれない。
そんな対抗心を燃やしていた(多分)ころのヒット曲“フローズン”を聴くと、やっぱりというか、非常にビョークっぽい曲に仕上がっている。東洋風にあしらった民族楽器をはじめとして、テクノ界隈のウィリアム・オービットから得たアブストラクトなビート感覚などなど、あからさまにビョークを連想させるサウンドで溢れている。こういう内省的な雰囲気もマドンナにしては珍しい。
僕からするとわかりやすすぎてアレなところもあったけど、最先端の音に対する嗅覚の鋭さこそがマドンナの真骨頂であり、そういう意味では90年版のマドンナを正しく自己プロデュースしていただけのように思える。もっとも、ビョークもそういった意味では抜け目なかったけれど、いかんせんやることが極端だったので気軽に楽しめる向きではなかった。その点、「ポップの女王」マドンナは、どこまでもわかりやすくポップだ。
映像監督の
クリス・カニンガムもまた、両者のミュージック・ビデオに関わっている。
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