■桐下駄
●「こみ」さんがデジカメで撮った写真をアップしていた。
それで私もデジカメを出してきて、撮ってみた。
狭い玄関に並べられた「桐下駄」。
これは、昨日、妻が遊び心をおこして買ってきたもの。
私と妻のお揃いである。
●高校時代、1年生までは、私たちの高校の男子は履物は
「下駄」だった。昭和36年ころの話であって、大正や
昭和初期のことではない。
冬には足袋を履き、やはり「下駄」で登下校した。
学校の中でも、体育の時間以外は「運動靴」は履かなかった。
教室、廊下は「土足厳禁」で裸足だった。外に下りるとき、
下駄を履いた。校内も下駄で歩いた。クラブの部室は土間だったので
下駄で出入りした。
だから、家でも「下駄」だった。普通の服装(洋装)をして
足元は「下駄」というスタイルは、当時の宮崎市内の「高校生」の
「男子」の普通の格好だった。
旧制高校の名残か、まだ「バンカラ」が、当時の高校男子の
「ダンディズム」だったのである。
それが、文部省の指導要領によるものだろうと思うが、翌年あたりに
「下駄履き禁止令」が出た。生徒たちは激しく学校側に反発した。
他校では「運動靴」になっても、私たちの高校は、教頭と大衆団交を
やったりして、しばらく「下駄履き」が実力で行使されていた。
●私は淡路から東京、東京から淡路、そして淡路から宮崎へと、
小学校を四回、転校したが、宮崎に来て一番びっくりしたのは
休み時間に教室から校庭に出て遊ぶとき、裸足で校庭に下りること
だった。
淡路でも、校庭の地面に下りるときは、「運動靴」か、「アサブラ」と
呼ばれるゴム製のサンダルを履いた。東京では中庭はコンクリートの
上にゴムか何かが薄く張ってあって、モップで油を引いた教室と
廊下、そして、中庭、運動場も、みな土足のズック、「運動靴」だった。
しかし、宮崎市では昭和30年、小学生は校庭や運動場では
裸足で走り回り、遊んでいた。宮崎の気候風土と、のんびりした
県民性が「裸足」を許容していたし、そして、当時、まだ貧し
かったのも事実だ。県民の一人当たり所得では、いまも全国最下位に
近いところに位置するが、当時は、絶対的に「貧しかった」。
(でも、県庁所在地で、しかもその中心にある「宮崎小学校」は
豊かなほうだったのに・・)
●しかし、昭和36年ころには、もう宮崎も貧しくはなかった。
貧しくて「下駄履き」だったのではなく、オシャレのために
「下駄」を必要とした。その証拠に、割れたり、歯がすり減ったり
する「下駄」のほうが、「運動靴」より履物代としては高くついた。
学校側は、私たちの高校だけが「下駄履き」なので、やきもきした。
県下でトップの進学校だったし、伝統があり、県の要職を占める人や、
県外の宮崎県出身者で出世した人の多くが、私たちの高校の
卒業生であるような、そのような「エリート意識」もあったので、
新しく赴任してきたK校長は、文部省や教育委員会、また他校の
校長への手前上、どうしても「下駄履き禁止」を徹底せねば
ならなかった。
●学校側というか、お役人の考えることは、いつも「姑息」だ。
もちろん、「恩讐の彼方」ほど前の話であり、今の時点から思い
起こすと、それも「かわいらしく」「ほほえましく」も思えるのだが・・。
高校側は、いままで「土足厳禁」だった教室や廊下をすべて
「土足解禁」にして、ただし「下駄履き」は禁止とした。
私たちも、さすがに板張りの廊下や教室を下駄で歩くことは
できなかった。ガタガタと下駄はうるさくて、かなわなかった。
いつの間にか、男子もみな「運動靴」に換った。
小学校から高校まで、ずっといっしょだったY君の家は「下駄屋」だった。
「下駄履き禁止令」が出た前後に、つぶれてガソリンスタンドに
換った。
●結婚してからしばらくの間、私は夏には浴衣を着たし、正月には
和服を着た。そして、下駄を履いた。
下駄は清楚で、気持ちよかった。
妻が買ってきた「桐下駄」には、歯がない。
裏は平たく合成樹脂の「底」が張られていて、「ポックリ」のように、
歩くたびに、「カラン、コロン」と桐の木の乾燥した音が響いた。
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