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2006年05月24日02:09

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●身辺雑記(54)/■批評ということ

■批評ということ

 ●「アッキー」さんから、メールが届いていた。

  それは、野球の話で、私が阪神ファンかどうか
  ということで、つまり

  「おーい、どうしているか。
   元気かね」

  と、相手の安否や機嫌のことなど
  直接、尋ねるのも何だから、
  やさしく、別のことばで声をかけてくれたのだ。


 ●「起承転結」で、長々と
  「続・中島義道」を書いたりしたが、
  私の言っていることは、いつも
  変わり映えのないことばかり・・・
  と、思って、ちょっとだけ
  沈んでいた。

  (なんか、進歩がないような・・)

  それで、

  思潮社から出版されている
  「詩の森文庫」シリーズの
  吉本隆明「際限のない詩魂 わが出会いの詩人たち」
  というのを読んで
  気分直しをしていた。


 ●メールは、そんなときに届いたこと、
  そして、「吉本隆明」では、「アッキー」さんに
  日記でも書いたことがあるので、
  返事には、次のように書いて送った。



    お元気ですか。

    いまは、どこのファンということもなく、
    ニュースで見るくらいです。

    働いている間は、職場の話題
    ということもあって、
    野球のことも少しは情報を仕入れたりしましたが
    いまは全然です。

    話は変わりますが
    吉本隆明の件ですが、
    「際限のない詩魂」という彼の本を
    読んでいたら、
    その解説に「城戸朱理」という人が

    「もし、吉本隆明という存在がなかったら」

    というのを書いていて、
    「自己と現実との関係」=「生活」
    という、そういう線で
    批評対象の作品に線をひいている、
    という指摘が書いてありました。

    この「城戸朱理」という人も
    えらいが、
    「吉本隆明」は
    やっぱりえらい
    と思いました。

    
   ・身辺雑記(29)/「やる」ことと「考える」こと



 ●「城戸朱理」という人は、どんな人か知らないが
  吉本隆明のこの「本」を解説するにあたって
  「批評とはどんな行為であるか」を書いている。


    ごく一般には、批評というものは、
    対象となる作品の評価を語るもののように
    思われているが、
    賞賛も批判も、
    それだけでは批評の目的ではない。

    「分かる」という言葉は、
    「分かつ」に由来している。

    批評というものの根源的な欲求とは、
    おそらくは、
    対象となる作品をより深く理解しようということから
    始まっているが、
    そのためには、対象がより見えやすくなるように
    その作品を書くように促した動機といった
    作品の潜在性、といったものまで
    露わになるように、
    作品を分割していかなければならない。

    分かるように分かつこと、
    それがまず、
    批評の仕事である。


     (中略)

    作品ぜんたいから何かを語ろうとすると、
    それは批評ではなく、
    個人的な印象を語る感想にとどまることになる。

    そして、作品をどのように分かつかという
    線の引き方が、
    ひとりの批評家にとっての方法であり、
    その方法は批評するものの思想によって導かれる
    ものである。

    そのようにして、
    批評文は、対象となる作品のみならず
    批評者自身をも語ることになるだろう。

    私は、以上のようなことを
    言語学者・前田英樹との会話によって学んだのだが
    このようにして考えていくと、
    批評にとっては、
    対象への賞賛も批判も
    目的ではなく結果でしかないことが分かるだろう。


      (中略)


    では、吉本隆明は、
    対象となる詩人たちに(どのような線)
    どのような分割線を引いているのか。
    それは、実に驚くべきものである。

      (中略)


    吉本隆明が、どの詩人を語るときでも、
    まず具体的な詩に向かい合っていることは、
    きわめて重要だが、それ以上に注意すべきことが
    あると思う。


      (中略)


    ・・・本書のみならず、
    詩を語ろうとするとき、吉本隆明は決して
    自らの思想的用語を使おうとしない。
    それは、むしろ、禁厄のようでさえある。

    このことの意味はきわめて大きい。

    そのことは、吉本隆明が詩を考えるときに
    詩を自らの思想のうちに繰り込むことを
    禁じたことを意味している。

    そう、一篇の詩を前にして、
    自らの思想的用語で分割線を引いたとしても
    それは批評として考えるならば、
    恣意的なものにしかなりえないだろう。


    だとしたら、
    いったい、どのような分割線をひけばよいのか。


    ・・・吉本隆明が作品を分割する線とは「生活」である。
    そして、そのことによって
    詩に込められたひとりひとりの
    詩人の「思想」を見えるようにすること、
    著者(吉本)が心を砕いているのは
    そのことであって、
    わたしが骨太な骨格と語ったのは、
    まさにそのことにほかならない。


    その意味では、吉本隆明は
    詩と向かい合うときには、
    ほとんど素手で、ひとりの詩人や一冊の詩集や
    一篇の詩に出会おうとしているようにさえ見える。

    それは、思想家による批評ではないし、さらに語るならば
    批評家による批評でさえないかもしれない。



    「生活」という分割線は、・・・・
    「戦後、絶望と虚脱のなかで、
     自己と現実の関係を回復しなければ
     生きてゆくことは出来ない」
    という切実さから導かれたものなのだろうし、
    その「自己と現実との関係」=「生活」
    という問題は、詩人・吉本隆明の詩作を促した
    問いの所与でもあったのだろうから、
    わたしが、本書に見出したものは、むしろ
    詩人による批評というのが
    正しいのかもしれない。

   (前掲書の解説「もし、吉本隆明という存在がなかったら」)         




 ●またもや、長々と引用したが
  メールで伝えようとしたことは、このようなことだ。


  「吉本隆明」もえらいが、
  「城戸朱理」もえらいと思うのは
  このような理由からである。



 
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