■中学三年の教養
●いま、「教養」がとりざたされている。
「教養」は、大人になってから身につけるもののように
思われがちだが、私は、それは狭きに失していると思う。
せめて、義務教育の修了する「中学三年」までに
これを習得するように「公教育」の場で実践する必要があるように
感じている。
このように言うと、それは「基礎学力」のことか、と問う
人もおられると思うが、私は「学力」では、これも物足りなく、
心もとないので、いま大人の間で物議をかもしている「教養」と
いう言葉を使っている。
●つまり、義務教育を修了した人間が、これから社会に船出するときに
最低必要なものを身につけさせよう、との主張である。
したがって、「基礎学力」を含んだ「素養」という言葉に近い
かもしれない。
●本来は、「教養」などというものは、教えるべきものではなく、
本人が自ら「身につけるもの」なのかもしれない。
しかし、年端も行かぬ小人(こども)が、生き馬の目を抜くような
大人の社会に巣立ち、これから世間の荒波にもまれるのである。
その小人に、大人は何を持たせてやることができるか、
私は、そのことを問題にしているのである。
●「しつけ」という言葉もある。
これは本来、家庭で行うべきことかもしれない。
しかし、「公教育」の場で、しつけることも、あるのではないか。
かつて「修身」というのがあったという。
もし、いま、この言葉を「基礎修養」というような意味で使うなら、
私たちは、何を彼らに、「身につけ」または、「身につく」ように、
これを「やしない、おさめる」よう図ってやったらいいのか、
という問題でもある。
●私にとって「教養問題」が浮上してくるのは、
このような文脈においてである。
私たちは、その子たちに何を教え、そして
何を学び、何を知り、何を考えるように、
仕向けるか。
当然、これは「基礎学力」の内容も問うものになってくるだろう。
そして、どういう人間、どういう大人になってほしいか。
そういう親たちの願いとも、つながってくるのである。
「義務教育」は、中学三年までである。
彼らは、まだ小人のようである。
しかし、私たちの言葉を理解する立派な「大人」でもある。
■案内
・
日記/「Home」案内
ログインしてコメントを確認・投稿する