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2006年05月22日02:49

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●連歌「起承転結」(04)/■中学三年の教養

■中学三年の教養

 ●いま、「教養」がとりざたされている。

  「教養」は、大人になってから身につけるもののように
  思われがちだが、私は、それは狭きに失していると思う。

  せめて、義務教育の修了する「中学三年」までに
  これを習得するように「公教育」の場で実践する必要があるように
  感じている。

  このように言うと、それは「基礎学力」のことか、と問う
  人もおられると思うが、私は「学力」では、これも物足りなく、
  心もとないので、いま大人の間で物議をかもしている「教養」と
  いう言葉を使っている。



 ●つまり、義務教育を修了した人間が、これから社会に船出するときに
  最低必要なものを身につけさせよう、との主張である。


  したがって、「基礎学力」を含んだ「素養」という言葉に近い
  かもしれない。



 ●本来は、「教養」などというものは、教えるべきものではなく、
  本人が自ら「身につけるもの」なのかもしれない。


  しかし、年端も行かぬ小人(こども)が、生き馬の目を抜くような
  大人の社会に巣立ち、これから世間の荒波にもまれるのである。

  その小人に、大人は何を持たせてやることができるか、
  私は、そのことを問題にしているのである。


 ●「しつけ」という言葉もある。
  これは本来、家庭で行うべきことかもしれない。

  しかし、「公教育」の場で、しつけることも、あるのではないか。

  かつて「修身」というのがあったという。
  
  もし、いま、この言葉を「基礎修養」というような意味で使うなら、
  私たちは、何を彼らに、「身につけ」または、「身につく」ように、
  これを「やしない、おさめる」よう図ってやったらいいのか、
  という問題でもある。



 ●私にとって「教養問題」が浮上してくるのは、
  このような文脈においてである。


  私たちは、その子たちに何を教え、そして
  何を学び、何を知り、何を考えるように、
  仕向けるか。

  当然、これは「基礎学力」の内容も問うものになってくるだろう。


  そして、どういう人間、どういう大人になってほしいか。

  そういう親たちの願いとも、つながってくるのである。



  「義務教育」は、中学三年までである。

  彼らは、まだ小人のようである。
  しかし、私たちの言葉を理解する立派な「大人」でもある。



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