●9月12日(土) 雨
雨が降らない、といっていたら
雨がふってきた。
つめたい雨だ。
秋の雨はなぜかさびしい。
もう本当にランニングでは過ごせない。
暑がり屋で寒がり屋の私は、
季節の変化にときどき、とまどう。
夏をひきづりながら
ふるえて秋を迎える。
■私死にましたの知らせ・・/
小泉八雲
「小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、好き嫌いのはっきりした人だった。
好きなものは、夏、夕焼け、西(書斎は西向きに構えた)、さびしい寺、
怪談、煙草、浦島太郎などである。」
「怪談の本は私の宝だと言った。節子夫人が古本屋を廻って探し、
一読してから、ハーンに語って聞かせた。」
「着物を好み、洋服は好かなかった。フロックコートは大嫌いだった。
ユカタが好きだったが、図案を好んだのだろう。夫人がユカタ地を
選ぶ時、これもよい、あれも、と勧めて、結局、三十反も買い、
呉服屋を驚かせた。図案は波やクモの巣がお気に入りだった。」
●そして、嫌いなものもはっきりしていた。
「ハーンの嫌いなものは、電車、電話、ハタキの音、嘘、弱い者いじめ、である。
妻を愛さない男も大嫌いだった。
抱えの車夫を雇う際、『あの人はおかみさんを、かわいがりますか?』と
夫人に聞いた。それが雇傭の条件だった。」
「『まっぴらごめん』という日本語を愛した。西洋風を嫌い、古い日本を
愛した。『私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するです』と
夫人に語った。」
●以上は、出久根達郎『百貌百言』の「小泉八雲」の章からの引用である。
しかし、ハーンは必ずしも『日本人より日本を愛した小泉八雲』という相貌だけでは
ない。
1994年7月〜9月、NHK人間大学で「ラフカディオ・ハーン 漂泊の魂」と
いうのを放送した。
そこでは、講師のノンフィクション作家・工藤美代子さんが「ハーンはアメリカ人にも
なりきれず、まして父親の出身地であるアイルランドの人にも、母親の故郷である
ギリシャ人にもなれず、ジャーナリストとして、また旅行作家として名声を
得たのちも、駆り立てられるようにして新天地を求め続けた『漂泊の人』」である
ハーンの側面に光をあてていた。
一説には、ウイキペディアにあるように「ハーンは幻想の日本を描き、
最後は日本に幻滅したとした」とも言われている。
しかし、日本人に、日本文化のもつ「美質」ということについて、あらためて
目を向けさせてくれたことは間違いないであろう。
●明治三十六年、彼は帝国大学・英文学教授の職を解かれた。
後任には、英国から帰国した夏目漱石が着任した。
翌三十七年、早稲田大学で教鞭をとったが、その年九月十九日、突然の心臓発作に
みまわれた。
「多分私、死にませう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。
小さい瓶買ひませう。三銭或は四銭位のです。私の骨入れるために。
そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。
あなた、子供とカルタして遊んで下さい、如何に私それ喜ぶ。
私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、
はあ、あれは先頃なくなりました。それでよいです。」
いったん痛みは消えたが、その一週間後の二十六日の夜、
「ママさん、先日の病気また参りました」
と言い、それから間もなく、「口のほとりに少し笑みを含んで」
静かに旅立った。
(小泉節子「思ひ出の記」から)
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