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2009年09月12日21:20

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■私死にましたの知らせ・・/ 小泉八雲

●9月12日(土)  雨

 雨が降らない、といっていたら
 雨がふってきた。

 つめたい雨だ。
 秋の雨はなぜかさびしい。

 もう本当にランニングでは過ごせない。
 暑がり屋で寒がり屋の私は、
 季節の変化にときどき、とまどう。

 夏をひきづりながら
 ふるえて秋を迎える。



■私死にましたの知らせ・・/ 小泉八雲

 「小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、好き嫌いのはっきりした人だった。
  好きなものは、夏、夕焼け、西(書斎は西向きに構えた)、さびしい寺、
  怪談、煙草、浦島太郎などである。」

 「怪談の本は私の宝だと言った。節子夫人が古本屋を廻って探し、
  一読してから、ハーンに語って聞かせた。」


 「着物を好み、洋服は好かなかった。フロックコートは大嫌いだった。
  ユカタが好きだったが、図案を好んだのだろう。夫人がユカタ地を
  選ぶ時、これもよい、あれも、と勧めて、結局、三十反も買い、
  呉服屋を驚かせた。図案は波やクモの巣がお気に入りだった。」


●そして、嫌いなものもはっきりしていた。

 「ハーンの嫌いなものは、電車、電話、ハタキの音、嘘、弱い者いじめ、である。
  妻を愛さない男も大嫌いだった。
  抱えの車夫を雇う際、『あの人はおかみさんを、かわいがりますか?』と
  夫人に聞いた。それが雇傭の条件だった。」

 「『まっぴらごめん』という日本語を愛した。西洋風を嫌い、古い日本を
  愛した。『私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するです』と
  夫人に語った。」


●以上は、出久根達郎『百貌百言』の「小泉八雲」の章からの引用である。
 しかし、ハーンは必ずしも『日本人より日本を愛した小泉八雲』という相貌だけでは
 ない。


 1994年7月〜9月、NHK人間大学で「ラフカディオ・ハーン 漂泊の魂」と
 いうのを放送した。

 そこでは、講師のノンフィクション作家・工藤美代子さんが「ハーンはアメリカ人にも
 なりきれず、まして父親の出身地であるアイルランドの人にも、母親の故郷である
 ギリシャ人にもなれず、ジャーナリストとして、また旅行作家として名声を
 得たのちも、駆り立てられるようにして新天地を求め続けた『漂泊の人』」である
 ハーンの側面に光をあてていた。


 一説には、ウイキペディアにあるように「ハーンは幻想の日本を描き、
 最後は日本に幻滅したとした」とも言われている。

 しかし、日本人に、日本文化のもつ「美質」ということについて、あらためて
 目を向けさせてくれたことは間違いないであろう。



●明治三十六年、彼は帝国大学・英文学教授の職を解かれた。
 後任には、英国から帰国した夏目漱石が着任した。

 翌三十七年、早稲田大学で教鞭をとったが、その年九月十九日、突然の心臓発作に
 みまわれた。


 「多分私、死にませう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。
  小さい瓶買ひませう。三銭或は四銭位のです。私の骨入れるために。
  そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。
  あなた、子供とカルタして遊んで下さい、如何に私それ喜ぶ。
  私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、
  はあ、あれは先頃なくなりました。それでよいです。」

 
 いったん痛みは消えたが、その一週間後の二十六日の夜、
 「ママさん、先日の病気また参りました」
 と言い、それから間もなく、「口のほとりに少し笑みを含んで」
 静かに旅立った。

 (小泉節子「思ひ出の記」から)
 
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