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2008年11月14日00:03

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外伝5 第14章

第14章 黒い小川

 バドルの正面に立っていたのは、古えの言い伝えどおりの姿をした妖女だった。

 おりしも登り始めた月の光に正面から照らされて、宵闇に冴え冴えと輝く大きくうねる金色の髪。赤い宝玉を正面にはめ込んだ簡素な白銀の冠。抜けるように白い顔。緑の宝石のような大きな瞳。すべての特徴が、これこそ魔の森に身を潜め、数多の国さえ緑の闇に沈めてきた吸血鬼であることを示していた。
 けれど足下の黒い小川に鮮やかな影を落としたその姿の異様なまでの美しさは、言い伝えが全く描き出せずにいたものだった。月下の美の精髄のごとき妖女の姿は、そんなものを想像さえしていなかった少年の背筋に衝撃を走らせた。

 だがその衝撃さえ、その顔が浮かべる表情への驚きに比べればものの数ではなかった。

 冷酷に獲物を見据えるはずの目が、だが隠しようのない不安に揺れていた。おぞましい欲望への邪悪な期待を浮かべているはずの顔が、胸苦しいまでの動揺をあらわにしていた。それはまるで大切なものを見失い動転しているかのような、そんな様子とさえ見えた。

 それを裏づけるかのように、人外の美姫は丈高きその身を伸び上がらせるようにしてバドルの、そして家の奥の壁に身を張りつかせて固まっているラダンたちの顔へと順々に視線を走らせた。見られたラダンたちが押し殺したような悲鳴を上げたが、視線を一巡させた闇姫は彼らへの関心を無くしたようだった。およそ獲物の物色とは思えぬそぶりだった。誰かを探しているようにしか見えなかった。あまりに意外なことの連続にバドルはなかば呆然としながら、不安に心乱しているとしか見えぬ闇姫の姿を見つめていた。

 魔物たちを引きつれていたあの少女の姿の吸血鬼は、遠目にも鮮やかだった赤い目と炎を照り返した牙の印象ばかりが残っていた。魔物たちとの戦いになだれこんでしまったため、少女にそれ以上目を向ける余裕がなかったことをバドルはいまさらのように実感した。
 だが目の前にいるこの妖女は、渇きに瞳を燃やしてもおらず、牙をむき出してもいなかった。非現実的なまでに美しい姿ゆえの人間離れした印象さえ、顔に浮かんだ表情に、不安げにあたりを見回すそのしぐさにあらかた削ぎ落とされていた。ほとんど人間としか見えぬ闇姫の姿に、少年はいまや混乱していた。

 そのとき、闇姫の緑の瞳が再びバドルに向いた。身を硬くした少年を、すがるようなまなざしが捉えた。か細い、震えを隠せぬ声が耳に届いた。
 忘れられた言葉の後、異質な響きと抑揚の終わりにただ一つ、小さな赤い唇が耳慣れた言葉を、決して忘れることなど許されぬ名を紡いだ。

 ミラン、と。

 打たれたように立ち尽くす少年の耳に、明らかに問いかけだと知れる不安げな、ひどく切なげな声が再び聞こえた。もはや何といっているのか、疑う余地などなかった。

 ミランはどこ?

 ただ一つの名がその瞬間、受け入れられるはずのない事実を、毒矢のように少年に突き立てた。それは動かぬ証拠だった。目の前の妖姫がミランと出会っていたのだということの。
 よじれた心のあげる軋みが、呻きと化して食いしばった歯からもれた。バドルは思い知らされた。自分がそうでないことを心中どれほど願っていたのかを。今朝の彼は自分の知るミランのままで、荒野から帰ってきたのだと信じたかったかを。

 だが願いは、望みは今や砕かれた。その衝撃の中、突然一つの疑問がバドルを捉えた。それは彼ならばこその疑問だった。別の吸血鬼と遭遇した経験を持つ彼ゆえの、夜ごとの悪夢に連なる恐ろしい疑問だった。

「……なぜ、ミランの名を知っている?」

 魔獣を連れた少女の姿の吸血鬼は、自分たちに名を尋ねたりはしなかった。ならば。

「……どうやってミランの名を知った?」

 口にしたミランの名に目を見開いた魔性の姫を、バドルの黒い目が見据えた。

「牙にかけるだけでは飽き足らなかったとでもいうのか?」

 胸苦しいまでの思いをたたえた緑の瞳に、脅えのようなものが混じったのをバドルは見た。あまりにも人間的な、か弱いとさえ見えるその様子に、彼は受け入れることができない真相の一端を直感した。耐えられなくなった少年はついに叫んだ。

「おまえはミランになにをしたんだっ!」

 怒声にたじろぐように一歩下がった相手の姿は、だが考えてはならぬ疑念をかえってかきたてた。もしミランと出会ったときも闇姫がこんな様子だったなら、彼は……?

>長く二人で暮らしていながら、ミランの何を見ていた?<

 兄ガドルの声が、そうと知らぬ間に形を変えた己の内なる声がバドルを責めた。

>あれほどミランにすがっていながら、おまえは彼の気持ちを、人間扱いされぬ者の思いを何一つわかりはしなかった<

 もはや言葉もなく立ち尽くす少年の耳に、人間まがいの美姫と名を呼び交わすミランの声の幻聴が響いた。

>おまえが彼の思いを察せず支えることができなかったから<

 思わず耳を抑えたバドルの脳裏に、見殺しにしてしまった兄の声が膨れ上がった。

>ミランの心に闇姫などがつけ入るのを防げなかったのだ!<

 突き上げてきた激情は悔しさという他ないものだった。
 それでいて、そんな言葉では言い尽くせぬものだった。

 胸を開けなかった悔しさ。
 彼を守れなかった悔しさ。

 最後まで兄ガドルのようにふるまえず、呪わしき妖女に遅れをとってしまった無念さ。

 ついにそれは、ミランの肉体ばかりか心まで丸ごと奪い去った吸血鬼への、化け物の身でありながら人間を模倣するおぞましい妖姫への狂おしい憎悪へと転じた。バドルの心は激しくよじれ、涸れ果てたはずだった焼けつくような涙までもが両の目から絞り出された。なおも両手を差し伸べて何かを訴えようとする闇姫の色を失った顔を、我が身を毒する悔し涙を抑えられぬ目がにらみつけた。

「そうして、そんな顔でミランをたぶらかしたのか!」

 その言葉に返すように細い声がミランの名を呼んだのを聞いた瞬間、バドルの怒りが爆発した。

「化け物のくせにあいつの名を呼ぶなあっ!」

 絶叫とともに放たれた稲妻のごとき矢は闇姫の胸から背中へと突き抜け、羽織ったマントを猛禽の翼のように跳ね上げた。家の中でラダンたちが悲鳴を上げたが、そんなものはバドルの耳には届かなかった。驚愕のまなざしを自分の顔に向けつつも、胸の前に短く突き出た矢羽に手をかけた妖女に、少年は残る矢を一気に叩き込んだ。たちまち針を立てた山嵐のごとき姿になりながら、それでも闇姫は倒れなかった。行き場をなくした激情と己の無力への絶望にわし掴みされ、バドルは空の矢筒を握りしめたまま号泣した。

 呼応するように、もう一つの叫びが響きわたった。

 バドルは、そしてラダンたちは見た。その丈高き半身をよじり天を仰いで叫ぶ妖姫の姿を。そして聞いた。悲嘆に塗り潰された絶望の声音を。

 それは誰の耳にも、悲鳴としか聞こえぬものだった。

 両手を天に差し伸べつつ、闇姫は逃れるように身をひるがえし何本もの矢に打ち抜かれた背を向けた。たちまち荒野を渡りきた颶風が、その体を巻き込みながら竜巻のように吹き上げた。

 その場に倒れ込んたバドルたちが顔を上げたとき、もう闇姫の姿はどこにもなかった。

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