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2024年03月26日22:20

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未完成交響曲の完成版およびバレンボイムのブルックナー(MUSE2024年3月号)

 ある方が今回シューベルトの「未完成」交響曲の「完成版」について述べておられましたので、そのことに関する補足から始めさせていただきます。
 少なくともレコードの世界において、この曲を4楽章形式まで完成させた最初のものはマリナー/アカデミーによる旧フィリップスへの録音で、日本市場にて発売されたのは70年代に入ってからのことでした。けれどそれを20年近く遡った時期に我が国ではシューベルトが完成できた2つの楽章に続くスケルツォをどんな形で書き残していたかを2組の演奏陣がレコード化していたのです。それが朝比奈隆/大フィルと渡邊暁雄/日フィルの2組ですが、これらは2つの楽章に加え、約4分の冒頭部分、しかも最初の数秒しかオーケストレーションされておらず残る部分はピアノによる下書きのままという状態をオケとピアノ双方で最初から収録しているというものでした。ステレオ最初期の60年前後の録音ですから、当時生まれたばかりの僕はLPの状態を目にする機会はありませんでしたが、CD時代に入ってすぐ、まず朝比奈盤がLPと同様、彼にとっても初のベートーヴェン録音となった最初のベートーヴェン全集における付録としてCD化され、後にそれを日本ナクソスが再発売しています。一方の渡邊盤はLPと同じ日本コロムビアが20世紀も終わり近くになってCD化したおかげで、そのころ流行り始めていたLP初出時のジャケットデザインのままCD化してくれており、僕が目にできないでいたLP盤の面影を堪能させてもらったのでした。
 なにしろシューベルト本人が書き残した楽譜そのままを演奏しているわけですから遺されたのがスケルツォである以上、作者がこの曲を4楽章制(あるいはそれ以上)の交響曲として構想していたことはまず間違いなく、だからこそ多くの学者たちがその構想をなんとか形にしてみたいと思うのは無理もないことだと思いますし、そこにそれぞれがシューベルトとはこういう作曲家だったに違いないという長年の研究から生まれた各人のイメージなり主張なりが反映するのも当然だと思うので、我々はそういうものとして楽しませてもらうのが一番いいのだろうと感じます。結果的に前半2楽章しか完成できなかったとはいえ、4分程度のこの断章でさえスケルツォの堂々たる開始は同時期の作である「ザ・グレート」に勝るとも劣らない壮大な構想を示して余りあるもので、冒頭2楽章のいずれもがゆるやかかつ暗いという後者にない特徴を示していることを思えば、彼が尊敬したベートーヴェン以上に徹底した暗から明へのテーゼこそが幻となったこの曲の完成形だったのではという気がしてならないのですから。そんな観点からそれぞれの学者たちが補筆完成した多くのバージョン(CD化されたことがある音源に限る方針のNMLに収録されたものに限っても現時点で5種類もあります)をここはやはり楽しませてもらうのがいいのではないでしょうか。

 ブルックナーの記念イヤーとのことで、若き日から近年までの音楽家人生を通じ3回もの全集録音をものしているバレンボイムのCDを聴いていて、ふと気づいたことがありましたので記しておこうと思います。
 バレンボイムという演奏家は録音時期であまり演奏スタイルが変わらない人で、その点はピアノも指揮も共通しています。彼が神童時代に最晩年のフルトヴェングラーと面会したエピソードは有名ですが、当然それは戦後のことで、戦時中の駆り立てられるようなドラマチックなスタイルがより落ち着きを増した最末期のものに変わっていた上にバレンボイム自身のむしろ穏和な人間性もあいまって、我々日本人が思い描きがちなフルトヴェングラーのスタイルからはむしろ遠い人でした。その意味でいえば、彼はいわゆる外柔内剛の典型のようなタイプの人で、それゆえ人柄も演奏スタイルも大きな変化を見せないのではと思うのです。
 そんな彼の演奏スタイルは決して過激なものではないどころか曲に対する慈しみの手つきを強く感じさせるもので、それは彼が手がけるどの曲にも共通しています。だからベートーヴェンではドラマチックな要素がどうしても薄れがちに感じてしまう反面、ブルックナーだとそれがとても心地よく感じられます。とりわけ初期から中期にかけては生前なかなか理解されなかったブルックナーがもしこんな演奏に出会えていたら、どれほど嬉しかっただろうかと思わせずにはおかぬものさえあります。
 そんな彼の3回目の全集録音における7番を聴いていたのですが、まことに丁寧な手つきを実感させる演奏との印象を今回も新たにしたのでした。そう感じつつ訪れた第2楽章の終結に近づく部分、ブルックナーならではの転調のうつろいが魔法のように表情を変えてゆく箇所でその転調がもたらす変化をテンポや表情も連動させて強調するやり方に彼らしさを感じつつ、こんな部分は一つ前の世代なら、ここまでお節介せずに転調自体がもたらした変化だと率直に伝えただろうとも思ったのです。末期ロマン派様式を本質的というよりは手法的な水準で受け継いだ彼は、ゆえにその短所をも引き継いでしまったのだとも。両者の間の世代でもあった新古典主義を支持した人々は楽譜への干渉を最小限に留めることを旨とした人々でもあり、それがもたらした最良の境地こそ曲のどこがそんな表現を生んでいるかを外付けの表情を廃することで伝え得たことでした。テンポを変えずうつろう転調自体がブルックナーの音楽にもたらすニュアンスを最高度に描き出せたベイヌムなどが、そんな境地のまさに典型だったのです。



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