第13章 落ちた橋
乙女は足早に森を出ると、うっすらと赤みを残す昏き空の下、封じられていた知覚の網をいっぱいに広げた。荒野の彼方のあの丘を、それは難なく捉えた。
けれど、そこに人の気配はなかった。
それでも乙女は彼がそこへ来ることを疑わなかった。白みゆく空に目がくらみ始めていたとはいえ、彼女は彼があの丘を指し示すのを確かに見たのだったから。
だから彼女は昨夜と同じく荒野を渡り、ためらうことなく丘に登った。やがて彼もやってくる。そして自分をまっすぐ見つめ、呼びかけてくれるに違いない。新しい名で。素晴らしい名で。
そのとき自分は変わるのだ。すがるような思いで彼女は自分にいい聞かせた。自分の中のなにかがそのときこそ決定的に変わるに違いないと。
内なる声がなにか言い出すのではとの脅えを抑えつけながら、乙女は丘を登り切った。胸が苦しくなるような思いをいっぱいにたたえたまなざしを、荒野の彼方へ投げかけた。
たちまち知覚の網が異変を捉えた。緑の瞳が見開かれた。
沼地の中、あの家の場所に、多くの人間の気配がした。
しかもひどく不穏な、ただごとならぬ気配だった。
ミランと黒髪の少年だけがひっそり暮らしているはずの家に、何人もの人間たちが踏み込んでいるらしかった。なにか異常な、恐ろしい状況に彼の家は、ミランはあるとしか思えなかった。
むりやり抑え付けていた不安が乙女を一気に呑み込んだ。長衣の裾をひるがえし、彼女は狩りたてられるように沼地への斜面を駆け降りた。
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「闇姫を待つだと? ば、馬鹿いうんじゃないっ!」
裏返った声でわめくラダンを、バドルの黒い、思いつめた目が見据えた。
「逃げたりなんかできるか! 化け物に襲われた俺を庇ったからガドルは倒れた。なのに俺はガドルを見捨てた。だからガドルはあいつに、やつらに食われた。骨さえ残りはしなかった!
俺がぶざまに逃げたせいでガドルはみじめに死んだ。そのうえミランまで俺を助けようとして闇姫の餌食になったんだっ」
「もう逃げるわけにはいかない! 今度こそ戦ってやる。戦って戦って死んでやる。俺なんかが生き残ったせいでガドルもミランも死んだんだ。俺が、俺が死んでさえいればっ」
「ええい、このわからずやをふんじばれ! 殴り倒してでも村へ連れ帰るんだ!」
ラダンの声に固まっていた若者たちが身動きしたとたん、かすめた黒い稲妻が音をたてて壁板を砕いた。
「……邪魔するな!」
追いつめられた獣の目をした少年が、弓を構えつつ唸った。
そんなバドルにラダンたちは脅えた目を向けたまま凍りついていたが、ついに一人の若者がわめきだした。
「こ、こんな所にもういられるか! 帰る。俺は村へ帰る!」
戸口によろめき出て扉を開け放ったとたん、だが若者は悲鳴を上げた。いっせいにそちらを向いた全員の目もそれを見た。宵闇に金色の光を散らしつつ、荒野を渡り来る人影を!
「闇……姫っ」
噛みしめた歯からバドルの呻き声がもれる間にも、黄金の髪の丈高き妖女は滑るように近づいてきた。
「く、来るなぁ!」
若者が板の橋に取り付き、めり込んだ砂地から引き剥がし始めた。
「ば、馬鹿野郎! 逃げられないじゃねえかっ」
背後から仲間に組み付かれ、若者は持ち上げかけた板を取り落とした。かしいだ板は小川に落ち、泥水に巻かれて流れ始めた。あわてて拾おうとした二人の目の前の対岸に、ついに魔性の姫がたどり着いた。
悲鳴をあげて逃げ込んできた二人をかきわけて、バドルは戸口に出た。鍛えぬいた技はそれと自覚さえさせぬまま、つがえた矢を標的に定めた。外しようもない必殺の一撃を放つ寸前、殺意に燃える黒い目が真正面から相手を見た。
その目が驚愕に見開かれ、弓を引いた手が硬直した。
「なんだ、こいつ……」
バドルの口からかすかな、放心したような声がもれた。
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