mixiユーザー(id:7656020)

2008年11月04日02:11

56 view

外伝5 第12章

第12章 真昼の闇

 真昼の陽光さえ通さぬ森の闇の中、全ての色彩を失い緑の濃淡一色に染められた乙女は夜の訪れをひたすら待ち続けていた。

 もはや昼の世界に拒まれて久しいその身は、陽光に満ちた外の世界を知覚するすべを持たなかった。夜の闇の下でなら遠くまで伸ばせる知覚の網も今は森の覆う範囲に遮断され、彼女にとって外の世界は存在しないのと同じだった。

 人間だったことを思い出すまで当然のことと疑いもしなかったそのことは、思い出してからは深い喪失感を彼女にもたらした。陽光に身を焼かれた経験により表面的には諦めに覆われたとはいえ、それは哀しみの大きな源の一つであり続けていた。ただ一つの情景だけが、思い出すことのできた光景だけがすべてだった。遠い昔、朝日をいっぱいに浴びて開いた小さな花を摘んだ自分。明るく鮮やかな緑の光をきらめかせていた森。抜けるようだった空の青。
 もはや目にすることの望めぬその光景こそ、自分が人間だった確信の礎だった。そして白き青年ミランこそなくした世界からの使者、自分の魂をあるべき世界へと誘う掛け橋だった。そこでは自分は人間として在ることができた。たとえそれがほんの一瞬の幻にすぎなくても。

 ならばとどこかで声がした。おまえは本当にそれで満たされるのか、失われると定められたその至福に酔いしれて、再びそれが失われたときのより深い喪失感に耐えることができるのかと。
 人間にすぎぬミランの命などはたちまちしおれ、枯れ果てる。その後は再び広大な森と不滅の肉体の二つの牢獄に一人残される定めではないか、と。

 わかっているわ、乙女は答えた。

 ならば、と再び声がした。人間などに心を預けてなんとする。すがりついてなんとする。いずれ失うのを怖れるあまり、己が闇へと引き込むのであろう、と。

 いいえ、決して。乙女は答えた。夜魔になり果てたこの身にもかかわらず、彼は私に人として呼びかけてくれた。私も最後まで人としてふるまう覚悟と。

 そうして目をそらし続けるのか? 内なる声が問いつめた。
 自分が生きている限り、いずれこの世は闇の森に覆われ人間は滅びゆく定めではないか。たとえ牙をふるわずとも、自分はこの世を闇に沈める化け物に他ならぬ。そんな身で人間のふりをしてなんとする。

「……ずっと、ずっと先のことよ」

 思わずもらした声はか細く、震えていた。だがその脳裏には、折れた塔の上から見下ろしたあの光景が、はてしなく広がりゆく魔の森の脈動がよみがえっていた。

「ほんの、ほんのひととき、それさえ私には許されないの?」

 内なる声は沈黙した。だが乙女はその沈黙に、それが意味するものに脅えた。心が軋み、思わず膝を屈した。両手が天空を遮る緑の闇にさし伸べられ、声なき叫びが放たれた。

 夜よ来て、と。私を人とみなしてくれる彼に早く会わせてと。今夜、彼は私に名をくれる。新たな私のよすがになる名を。それさえあれば、きっと私は最後まで人としてふるまえる。このさき彼と別れるときがこようとも、人として死ぬ彼を見送れる。この奇跡のような出会いの思い出を抱きしめて、私は必ず心を支えてゆけるから、と。

 たとえ森が大地を覆いつくす定めでも、少なくとも私は、私自身はもはや牙などふるいはしない。それがどれだけ自分を苛むかを、あの少女が教えてくれたのだから。そしてこんな私にさえ、人としての魂が息づいているのだと彼は、ミランは認めてくれたのだから。

「だから、だからせめてひととき。いまひととき、夢見ることを許して。私は、少なくとも私の心は、決して夜魔などではないのだと……」

 ついに声として放たれた願いは、しかし荒れ狂う灼熱の陽光に阻まれ、どこへも届くことがなかった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 いつもの悪夢を通り抜けたバドルを待っていたのは、さらなる悪夢のひとこまだった。

 死にゆく兄ガドルの目に浮かぶ黒々とした憎念は、もはや呪詛というべき域に達していた。おまえは俺を見捨てたのみならず、ミランを守ることもできなかったのかと少女の姿をした吸血鬼や異形の化け物たちに貪られ、引き裂かれてゆく兄の目がバドルを責めていた。

 いつもなら叫びとともに断ち切られる恐ろしい悪夢は、しかし新たな場面に進んだ。もはや人間としての形を失いつつある兄に群がる魔物たちの姿が濃密な闇に閉ざされてゆき、身動きできぬ少年の足元にねっとりと流れてきた。あたりが徐々に明るくなるにつれ、流れてきた闇は黒い沼に姿を変えた。あのとき何も掴めなかった手が、泥水の中の何かに触れた。
 それが万力のような力で少年の手を握り返すとともに、何かが黒い水の中から浮かび上がってきた。白い手が、腕が、肩が、胸が浮かび上がり、目を閉じた中性的な顔がもたげられた。

 まぶたが震え、ゆっくりと開いた。見慣れたはずの赤い瞳は、だが全く異質なものと化していた。気遣わしさを押し隠していたあの穏やかなまなざしがいまやたぎるように貪婪な眼光を帯び、軽く微笑んでいたはずの白い唇の両端が引き攣れたように吊り上げられると毒蛇のような牙がむき出された。
 悲鳴とともにのけぞったバドルを誰かの手が引き起こしたが、それは男たちの大きな手ではなく、少女のほっそりした小さな手だった。身を硬くした少年の耳元で細い牙持つ唇が、兄の生き血を貪った呪うべき仇が囁いた。

「あなたがそうして眠っていたから姫は彼に出会えたの。ほら、ごらんなさい」

 黒い沼は消えていた。少女の姿の吸血鬼に背後から抑えられ、バドルは丘の頂に立っていた。その目の前に二つの人影がもつれあうように立っていた。白蝋のような顔をこちらに向けたミランを、豊かな金髪を背に流した乙女が抱きしめていた。乙女の顔は見えなかったが、ミランの顔がしだいに変わりゆくのをバドルは見た。見せつけられた。肉体を穿った牙から滲む毒が彼を汚し、貶め、ねじ曲げてゆく様を。恐怖に歪んでいたはずの美しい顔がしだいに異様な恍惚とした表情を浮かべ、ついには魔性の欲望に染め上げられてゆくのを。
 身じろぎ一つできぬまま、その光景を見せつけられるバドルの耳に少女の囁きが反響した。あなたがそうして眠っていたから姫は彼に、あなたが眠っていたから、あなたが……。

 絶望に黒々と塗りつぶされた怒りが恐怖を突き抜けた。言葉にならぬ絶叫が悪夢を一気に引き裂いた。



 見開かれたバドルの目が夕日の照り返しに赤く染まった天井を見上げた。脂汗にまみれた少年は、弱々しく呻いた。

「ミラン……」

 答える声の替わりに、身じろぎした者の怯えの気配が応じた。身を起こした少年の顔を、ラダンたちの怯えた視線が出迎えた。けれど自分を支えてくれていたあの赤い瞳はなかった。底知れぬ喪失感に捉えられ、力ない声でバドルは呻いた。

「見てたんだな……」

 言葉一つ発せられぬまま呑まれたような表情を浮かべて壁際に固まっているラダンたちに聞かせるともなく、空ろな声で少年はつぶやいた。

「あいつは、ミランはいつも俺を支えてくれた。悪夢に憑かれた俺を慈しんでくれた。夢のない安らかな眠りをもたらす薬をくれた。ミランは……」

「な、なあ、バドル」

 怯えを隠しきれぬ声でラダンがいった。

「こんな所にいちゃいけない。ここはいつ闇姫がきてもおかしくない場所なんだ。村へ戻ろう。みんながお前を待っている。みな不安なんだ。親父も死んでどうにかなっちまいそうなんだ。誰か頼れる者がいてくれなけりゃ俺たちは」

 なおも続けようとしたラダンを少年のどす黒い視線が射抜き、打って変わった激しい声が言い放った。

「闇姫が来る? なら俺はここで待つ。たとえ死んでもあいつに思い知らせてやるんだ!」

 硬直したラダンたちの顔が色を失うと同時に天井を染めていた赤い光も色あせた。森の彼方に夕日が沈んだことをそれは告げるものだった。

0 19

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2008年11月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30