年一本の確立とまでは行かなくとも、想定外に心中の琴線に触れて来るお陰で涙腺が鈍らされて、目尻からの落涙が止め様の無い作品との邂逅が幾度とあったりする。オスカーはじめ海外三大映画祭で評価を受けたとて、今やさほど動じなくなって居るのだが。
去年の「ChaO」が審査員賞の栄誉を授かったアヌシー国際アニメーション映画祭で、本作が観客賞に輝いたのもあって見に行く心積もりは出来ていたのだけれど。3月は、劇場に出かける機会が重なってしまい、一時は「流す事も止むなし。」と、諦めかけたところ。身近な方の本作の感想を目の当たりにし、消えかけた意欲を再点火させて出掛け見逃さずに済んで良かったです。
見られなかった方は、そんな風にも思ってないでしょうけど残念でした。(ちなみに、同じく映画祭で最優秀賞を授かった「Arco」は、本作が始まる前の予告で掛かったけど。絵柄に抵抗を覚えたので、申し訳無いけど流させて貰います。)
アメリと聴くと、ある程度の年数映画を見慣れた方々には、オドレイ・トトゥ嬢がクレームブリュレの表面を割るヤツを連想するくらい名前の印象が強いでしょうけれど。もちろん女性の名前ではあるのだけれど、遥かに2歳と若返えるうえに、舞台はパリではなくて1960年代の我国、神戸なので御座います。ベルギーの女性作家による自伝的小説をベースに、日本に赴任した外交官の家庭が日本滞在中に生を授かった2歳を過ぎた女の子のお話である。
まだ年端もいかない子供をお話に据えるというのは、大抵は親だとか「大人」の目線、都合から関係を語って絆の称賛とか安易な家族成長譚に丸めこまれガチ。そして、ヒトの生涯で最も若い記憶は何歳頃の出来事を自覚しているのであろうかという問題もあったりします。
本作は、多分、オトナとなった本人が、お話の当時の回想するカタチ。両親を始め家族から、健やかさは無論絶えずご機嫌良く居て貰うためにかしずく様子から「神様」として偶像か何かみたいに無反応で鎮座していたのが、空路渡航の疲れも構わず我が家着くやアメリの元へ押し入って来た祖母からの「刺激」を受けて、アメリは本能に従って、見るもの触れられるもの口に出来るもの五感を満たすものに関心が向き始める。
丁度その時、内に何かを秘めた雰囲気の女性大家であるカシマさんから外交員のお父さんに斡旋したニシオさんが、お手伝いとして住み込む事になって。彼女から、アメリは、数々の発見やお話等わくわくする事を与えて貰って、ニシオさんを慕い、日本が自分の生きる場所だと思い込むまでに。でも、もう間も無くアメリが3歳を迎えようかとする日に、幼い彼女には全く理解出来ない「何か」が、彼女の日常を唐突に壊すのだった。
パンフレット他、参照出来るテキストが無いので映像技法の深いところは判りませんけど。原作にあるのか、スタッフ陣の丁寧な情報収集の賜物なのか。1960年代の調度品はじめ、アメリ達家族の生活拠点となる外交官のステイタスに合わせた広々とした日本家屋の佇まいや、大家さんのカシマさんが,朝、庭先に敷き詰められた砂場に波紋を描く丁寧な生活を送る描写に、美術設定のブレが全く見当たらない上質な仕上がり。
人物の絵柄も、デジタル補正とかあるのだと推測しますが、鼻の輪郭とか髪の毛の生え際に線が入るけど、肌色をポテっとのせた感じ。絵本の挿絵の画調で現代に製作された映像なのに、手描き的な暖かさがある。
ガラス板の表面を指でなぞって書いた文字に息を吹きかけて浮かび上がらせるとか肌や目に触れる感覚や現象を丁寧に表現する傍ら、岸側から望む海が左右に引いて海底が道幅ほど開くモーゼの奇蹟を見せたところから急転して海中で体が揉まれて命の危機に晒される場面転換と、ノスタルジックで詩的であれば、イマジネーションと現実感の程よいバランスの描写に心奪われる事しばしばで、差し障り無い程度に書き留めます。
アメリに「目覚め」を促したお祖母さんも上品な見た目を裏切る登場で、強祖国ベルギーから神戸の宅に着くや否やの本場のホワイトチョコねじ込みの荒業は今日日のジジババ達の腫れ物を触るかの可愛がり様とは別次元の豪快描写。それだけに、本番のチョコの味にも余計な思いを寄せたりもしました。
本作の「鍵」的存在であるお手伝いのニシオさんは、特に外国語が堪能そうでもないのだけれど。オトナとして、また仕事の範囲内で、子供に対等に接して。蔵書にあった妖怪本の画を見せてアメリの癇癪を止めるとか、そもそも言葉では正確に交流出来ない外国人との交流も併せて、偶然にもこの前の朝ドラに通ずるところもあったりして。
アメリの名前の音が重なるところから、「日本語でのあなたの名前よ」とニシオさんは、縁側の引き戸のガラスに「雨」の字をアメリの前で象形の意味を解説しながら書いて見せる。決して、駄々をこねる幼児を諫めないのだ。外国人の名前と日本の象形文字も通じてはないのだけど。幼い相手を尊重したうえで、関心をよそに向けさせながら関係性も広げて。なんと優しく相手想いのコミュニケーションでしょう。
この後、家族で近所のお祭りに出かけた際に夕立に出くわすシークエンスが、アメリ自身にとって自身を取り巻く「世界」を体感する場面に繋がって。見ている側も、すっかり薄れた原初体験を思い起こさせる。忘れられた感覚を取り戻すというのは、日常の繰り返しによる失せモノの再取得が叶ったようで、琴線に触れるどころでは無い位に心中乱されっ放しで熱くさせます。
アメリが住んでいる家を中心とする一つの場所以外にも、世界は広がっている。けれど大事なひとは、その何処にも居場所を持たなくなる。つまりは、「死」と云うものがアメリの中で「ぼやけた」意識が現れて。1960年代と云う設定が、また絶妙と云うか。第二次大戦中の記憶が、まだ消え去ってはいないのです。
夕食の支度中、アメリにその疑問を投げかけられたニシオさんが、普段は機転を効かせて相手をするところ、自身の戦争体験を彼女に語ってしまうのだけど。その際「再現映像」が流れるのではなく、コンロの火や食材である魚の頭を落とす動作に、語られる戦火や殺傷状況の語りをシンクロさせて、ニシオさんの心傷の深さが推し量るように示される。それが、食事の支度の動作の中での話だから当時のアメリにとっては到底、ニシオさんの哀しみなんか及びも付かない。それこそ、幼少期の未成熟さでもあり記憶に残らない所以でもある。
それとは対極的に、家族旅行で出掛けた海水浴でのアメリの想像とアクシデントがその境を曖昧にして、シーンの中で立て続けに展開されるところなのだけれど。なぜ、アメリが判る訳もない危険を察知せずただ海へと入り行ったのは、一緒に行かなかったニシオさんに、彼女が語る経験から吹き込まれた海水浴の楽しさの「空気」を瓶につめて、ニシオさんに持って帰りたいというアメリの強い思いが彼女を動かしていたから。周囲に目もくれず、彼女が浅瀬から先へ先へと逸る気持ちが、海水が左右に退いて道筋が現れる飛躍的描写で「隙」が現れたそのせつな、彼女は海水に足元を掬われて。幼児の無邪気さと危うさが表裏一体として見せる。
どうにか海水浴から帰ったアメリに貰った瓶を受け取ったニシオさんが、その蓋を開いた時に頭に去来した瞬間が映像になるのだけれど。それも、実写じゃ浮いてしまうところ、統一されたビジュアルで見せられる強みが発揮されていて、そこでも目尻に波状攻撃が及んで来てしまう。
どうしても本作のシュチュエーション描写を伝えたく、いつも以上に字数を費やしてしまって。ここまで、たどり着いて頂いているか不安だけれども。目前に起こる事の良し悪し、意味合い、好むと好むまいが、現実なのか幻なのか、まだ記憶の層への積み重ねが始まったばかりのアメリの内面、深層を見せるのに、この手法との親和性の高さを発揮している。
そして、まだ世の中をうかがい始めのアメリに、「死」という概念が意識の中に入り込んで来た頃に、「戦争体験」を経て抱く意識の違いからの大人同士の食い違いから、アメリの傍からまた親しい人が居なくなってしまう。それも、今度は誰も死んでないのに。子供の「意識・写る世界」の映像ではあるけれど、幼少期ならこう在るべきというオトナの都合ではなく、その年頃のありのままの捉え方、目の当たりにする優しくない事実を示し「子供の領分」を守っているだけに、理解できないオトナたちの行いの理不尽さが際立つ。今は大人としてその年齢の時分には当然だけれど、そこまで昔あった事情に思い至るのは不可能だっただけに、深く染み入ります。
アメリの3歳の誕生日までの生立ちを俯瞰するナレーションが、これは例の如くウル覚えなのだけど「親しい人が、突然居なくなるのが悲しい。だからといって、そのひとが居なかった事にしてはダメだ。悲しくても、一緒だった時を記憶しておかないと」と、大体こんな趣旨で語る。
それは、「その対象の方の存在を尊重して記憶の中に留めるべき」って思いもあるでしょうけれど。例えば、口の中に無理やりねじ込まれたホワイトチョコの美味しさがあって。育ててくれる人が与えるのを待つのではなく、好みの味をこちらから求める行動とか自発的意志がまさにその時に開いた訳で。その人の存在をとどめるというのは、その時抱いた感情とか考えを尊重する。強いては、自分の肯定なのかと考えたりしました。映像の作りからは想像が及ばない程に、胸を熱くしたうえに、思いを馳せさせてしまう。
つらつら書き殴るも、触れる流れに至らず付け足しますが。初めて名前を聴く福原まりさん手掛ける音楽も、和楽器も使って作品世界を際立たせておりました。そして、異邦人であるアメリに「自分の国」の歌として耳に流れていたのが、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」で、その選曲も刺さりました。アメリには歌詞は判らずとも、海水浴に行った時ニシオさんからの入れ知恵的に頭の中でリフレインされて、お家とは違う気持ちの高まりを覚えるバカンス曲として頭の中にも流れていたのかな。
あと、こちらローカルの上映は吹替え版で。あらかじめ聴き知ったキャストを楽しみにしていたので、全く不服も無く。ナレーション担当が、花澤香菜さんで。これも、記憶の中では薄れてしまったけれど、「夜は短し歩けよ乙女」で、四季を一夜にして巡るかの騒動を経ての先輩との間柄を踏まえた人生の展望の語りでの実績から適役ですし。ニシオさんは、早見沙織さんが充てております。「東のエデン」の女子大生役からはや15年、こういうお母さん的役を負うまでにキャリアを重ねられて。作品舞台国向けの「補完」についても、感慨深かったです。
いつにもましての拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネプラザサントムーン シアター��にて。
↓駄文を補足する、吹替え版予告です。よろしければ
https://www.youtube.com/watch?v=4pypCXCMRck
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