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2024年02月25日23:26

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「哀れなるものたち」を見て。〜生まれ変わって、「知る」為のカラダと知識を満たす冒険を経て知る。可哀そうなのは私じゃなくて、あいつらだ〜

年齢関係なく誰もが見られる予告編では、ウィレム・デフォーさんの顔に施したつぎはぎメークや術衣姿から、「フランケンシュタインの怪物」に連なる異形モノの作品の表装と見做して心していたのだが。R-18指定要素として、そんな外科医のお仕事描写もあったかもしれないけど、多くは予告で詳らかには出来ないセクシャルな描写が作品中核として、なかなか多くを占めている。

以前、トム・ハンクス氏の「ビッグ」があって。なにかの「縁日」みたいな場にあった怪しげな中東風のランプの精みたいなのがこさえられたお祈りゲーム機みたいなのを見つけた少年が願いごとをした翌朝、起きると外見が大人の姿で、中身は少年のままで目覚めて。現役ユーザーの鋭い意見を玩具メーカーに直訴したら、会社から厚遇されて。それでエリザベス・パーキンスさんの女性社員を手助けに付け貰って、次第にお互い意識するもオトナ子供のトムさんには、クラスの仲の良い同級生の1人以上の「存在」から超えようが無く、相手の女性にしてみたら物足りなさが生じて行き違いに。

脇道にそれてしまったけれど、本作の描くところに、身体と知性や精神といった中身の「同調」の問題があるとは、ほとんど意識はしておりませんでした。いずれにしても、フィクションらしく「仮説」ではあるのだけど。「ビッグ」で見せるファンタジーで彩った童心への郷愁と違って、今を生きる我々観客の在り方や、他者との関係性に踏み込む問題を示唆している。

受け取る方によっては、アケスケな描写に拒否も働くでしょうけれど、何処か醒めたところもある語り口は、シリアスと可笑しみの緩急が行き届いているうえに、演技や衣装、美術と視覚は一級品であります。そして迎える作り手のニヒルさが伺える描写で彩った物語の帰結には、再び生を得たヒロインの成長の目撃者として溜飲が下がって、爽快ですらありました。

エキセントリックな外科医ゴッドウィンは、運び込まれた入水自殺の女性の遺体に、胎児の脳を移植のうえ蘇生しベラと名付ける。外見は成人女性だが、言動は幼児並みのベラは、ゴッドウィンの邸宅に匿われ「研究体」として観察していたが、専属の担当者としてゼミ生のマックスをつける。学術の対象として見做していたつもりが、情が入り込む事に冷静さを乱されるゴッドウィンは、ベラとマックスの婚姻契約を企て意見を求めるべく、弁護士ダンカンを自宅に招く。

ベラの出自など知らず成熟した女性の魅力に憑かれたダンカンは、「外の世界」への興味を膨らませる彼女を欧州大陸への旅に連れ出す事をゴッドウィンへ申し出る。複雑な心中を抱えるゴッドウィンは、ダンカンが遊び人であるのを承知の上で、彼女を渡航に連れ出すのを許す。「見るもの、体験するものが、総て初めて」の彼女は、干渉や束縛を受けずに、まっさらな状態で、自分や他者それらが取り巻く世界を体感して身体と中身を満たし、あるべき自分と侵される事のない自由を渡航から始まる「冒険」から得るのだった。

先に挙げた「ビッグ」で、エリザベスさんとトム・ハンクスさんの間の、どうにも埋められない(埋めてしまったら、製作の狙いを逸脱するが)「溝」を埋めてくれる「哀れなるもの」のヒロインベラのアケスケで奔放な行動に、この作品の核心がある。字数を喰って来たし、馬脚を出したくないので短めに記すが。肉体からもたらされる悦びも、自身の在り方のひとつであるが、動物と違い、社会という規範の中で実現しなくてはならない。そこに他者との関係性が横たわって来るのだけど、往々にして、自己の悦びを得るために、力のある者が一方的な立場に立つ事もあれば、情や理解が伴った対等な関係性を築く事で、自身の尊厳を脅かされず安心の中で得る事も出来る。

それまで、生気の薄い白黒画面から、ビビットに画面が色づくダンカンとの放蕩渡航から、まさに身一つ、裸一貫で逞しさを増すパリでの生活まで、まさに体感、実感を積み、様々な人間と密接して重なったり、時に距離を保って触れ合ったりしてベラが見た目通りの成熟した女性に、中身が追い付いて行く様が、ハタから見ても小気味よい。普通、あまりに絡みが多いと、「引く」ものなのに。

まず、思いつくに、遊び人ダンカンとの関係で、当初は男性優位で都合よく乗っかるだけの対象だったけど。見聞を広めたベラが、身体からの悦びから脱却して世間と自分について考えだすと、ダンカンが足手まといになって服従の関係性が解消されて、ベラの主体性が増してくる件がある。リスボンのホテルのボールルームで、同じ場に集まる人達の繋がりに興味を持って出歩こうとするベラをすがり付いて抑えようとするダンカンが折り重なる姿が、他の男女が踊る姿よりも、奇抜なダンスにも見えて。「パルプフィクション」で、互いにクールにフリ付けを決めていたトラボルタとユマ・サーマン以来のダンスシーンのコンビ部門での目を惹く見せ場だったし。

そして、ベラが自活するパリの娼館で、「平等」を学んだ彼女が、自分も「買われる」立場なのに、成長過程の怖いもの知らずなところを発揮して、相手を選ぶ権利みたいなものを主張するのだけど。普通だったら、叱られて鞭打ちにでもあっても致し方ないところなのだが。娼館のオーナー役のキャサリン・ハンターさんが、ベテランの域の老体であんな姿を見せながら、他の娼婦仲間はじめ自分達の商売を例として、世の成り立ちと云うものを親切に説く。

そのようにR-18の要素が、客引きの為でもなく、ストーリー展開にテーマを語るため不可欠ものとして描かれている。しかしながら、ただ、フランケンシュタイン博士のモンスターをモチーフにした、一方の性の搾取を指摘し、対等で自由な社会を掲げた崇高な作品に留まらず、2度目の生を得た者として、ベラが渡航の成果を活かしてみせるところに、キャラクターが産み出された意義があらわになると共に、そのモチーフに相応しいオチに、内心で快哉を挙げてしまいました。

前作は見ませんでしたが、過去作の「ロブスター」を見ていたヨルゴス・ランティモス監督はギリシャ出身で、上手に書き現わせられないが、人の営みを「冷めた」目線で捉えていましたが。時が経ち全世界に見せる作品として、その辺りを終幕に「毒」として昇華させています。

ベラに係る人達も、ゲスな奴は徹底してそういう役を負わせているけど。取り巻く人達は、功罪織り交ぜられて描かれていて。なかでも、創造者であり父でもあるウィレム・デフォーさんは、また、いい仕事ぶりでした。ベラの着用する衣装も、クラシカルだけど、ちよっと、かしこまった感をハズすかの造作。上は厳かなのに、下が短パン風だとか。格式は無いけど、我が国で云うと最近の浴衣の裾をたらさず、スカート的に切り上げたような。

それと、背景も特に西暦何年頃とか謳わず、一世紀以上前に見せて、宙ずりで走る客車のようなものが見えていたし。洋行する際の旅客船とそこから見える海も、いかにも撮影所内に設えた感じではあるけれど。作り物っぽさは見せつつも、結構、手間のお金は掛かっていそう。そんな具合に、お話を彩る客演者に美術、衣装も見どころが多かった。

そして、それらに目を配らせる製作者でありながら、主役を張るエマ・ストーンさんは、「ゾンビランド」で知った頃を思えば、たどり着いた演者としての「高み」に留まらず、築いた地位と獲得したギャラがもたらすパワーと、称えられた演者が果たさねばならない責務みたいなものを感じずにはおられません。この辺りが、我が国と違って、注目度、お金の掛かり具合、何と言っても人材の層の厚みが違う事を痛感させられたのでした。

拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネプラザサントムーン 劇場��にて

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