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2023年10月14日00:42

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川口慧海 仏教探求の旅

今度こそ展示を見ようと再び堺市博物館へ。「河口慧海 仏教探求の旅-チベットで求めたもの-」を見てきました。
「河口慧海を見たい」と言って案内された方へ行くと…。

古墳の展示。

堺市博物館は仁徳天皇陵の南側にあり、この周辺が古墳だらけ。
それらの古墳の解説、埴輪などの出土品の展示、仁徳天皇陵の石棺の復元模型など。
さらに須恵器がたくさん。それまでの土器は煮炊きすると水が染み出ていたのが、朝鮮半島から焼き物の技術が伝わって須恵器が作られるようになって、水漏れしないようになったと。へー。
そして古墳の作り方の図解。

その先は近世の堺。
南蛮人がやってきた時代。南蛮船の模型もあります。鉄砲鍛冶職人がたくさんいたそうですが、南蛮貿易で火薬の原料の硝石が入ってきたからだろうと。
そして住吉祭りの屏風。住吉大社から堺まで神輿が運ばれました。今は大阪市と堺市の間には大和川が通っていて、神輿も担ぎ手が交替するそうですが、大和川は江戸時代に付け替え工事をしたので当時は通っておらず、そのまま堺まで行っていたとか。(大和川の付け替え工事は小学校の時に習いました。小学校の近くに工事を采配した中甚兵衛の記念碑がありました)。
右が堺で、左に進みながら見ていきますと、安立町(あんりゅうまち)がある!細井川がある!そして鳥居と太鼓橋。このあたりは阪堺線なら安立町〜細井川〜住吉鳥居前、と駅があり、私が子供の時に住んでいたあたりです。いやー、懐かしい。いや、屏風の絵の時代が懐かしいわけじゃないけど。安立町の絵は建物が立ち並ぶ道になっていて、今の安立町の商店街のあたりかなーと思います。

それから泉州のふとん太鼓、だんじり。北はふとん太鼓で南はだんじりだそうな。うちの近所ではちょうど今頃になるとふとん太鼓の巡行があってお祭りをやっているらしい。子どもが太鼓と叩く練習をしていたりします。大きくなってから引っ越してきたので、地元の習慣やお祭りには疎いんです。

といった展示を見たら、やっと河口慧海にたどり着きました。
おお、「西蔵旅行記」の初版本だ。各国語に訳されたものもある。英語、フランス語、中国語、ネパール語。
それとは別に慧海の手書き文字の日記があります。旅行記では省略されていた、国境あたりの記述がこの日記でわかるということです。
慧海の旅程を描いた地図もあります。
そして「西蔵旅行絵巻」。旅行記が絵巻物になっている!しかも最初の方は慧海の子供時代で、友達と神社で遊んでいて、友達が足に釘が刺さったので抜いてあげた場面とか、若い時に家業を手伝っていた場面があります。あとは旅行記のそれぞれの場面が描かれています。すごい苦難の旅ですね。絵が雪の中とか高山とかばかりです。

さて、2回目のチベット行きの挑戦では、インドに何年か滞在してサンスクリット語を徹底的に勉強した、というのは先日講演会で聞いた話。その勉強のノートが展示されています。通っていた中央ヒンドゥー学院の校名入り。
また当時の日誌では梵語の訳読練習をしており、ページの左側には日記、右側にはカーリダーサの「メーガ・ドゥータ」のデーヴァナーガリ文字表記、英語、そして日本語の試訳が書かれています。
チベットに入ってからはチベット語の古字と新字を対照したチベット語のフィールドノートも書いています。

あとは慧海が持って帰ってきた梵文法華経貝葉写本。ダライ・ラマの公文書の押印の印影。現地の絵葉書には簡単な説明書きが添えられています。
トランクの実物。どこでどう使ったのかは不明。

そして地元での人脈。生涯の親友は肥下徳十郎。幼馴染の同級生で、慧海のためにいろいろ援助をしていました。徳十郎宛の書簡がいくつか。パスポートの代理申請もしていたとか。そのパスポートの実物も。
実家周辺地図があり、生家跡、慧海が学んだ清学館(現在リニューアル工事中で、復元して公開予定)、そのほか慧海ゆかりの場所が記されています。この地図はダウンロード可能なので、それを持って慧海ゆかりの地巡りをすることができます。

インドから送った荷物に保険をかけていて、その保険証券も展示されています。保険会社は東京海上保険。

慧海が使っていた蔵英辞典は書き込みがびっしり。
そしてチベット語訳無量寿経の翻訳ノート。
西蔵文典関連資料は、原稿いろいろに索引作成カード。チベット語辞典は未完に終わったといいますが、それを受け継いで完成させた人はいないのでしょうか。
東洋大学でチベット語を教えていたそうなので、東洋大学を調べてみました。そうしたら、この大学では仏教を研究する学科があり、そのなかでサンスクリット語やチベット語の講義があるようです。しかし慧海との関係を思わせるものは見つかりませんでした。

また慧海は晩年は在家仏教修行団を作りましたが、その会則や家計簿が展示されています。慧海は会計処理までしてたんですね。
慧海が書いた和讃の掛け軸は、かなり大きなもので、上部にサンスクリット文字が書かれています。

サムイェー寺護符は、中央に剣が描かれていて、それが文殊菩薩を表しているということで、上部に慧海が「文殊菩薩剣」という文字を書いています。
講演会のパワポで見た、高村光雲の釈迦如来の実物も見ることができました。誕生仏もありました。光雲が原形を作り、三男の豊周が完成させたもの。
晩年は弟一家と住んでおり、弟の子供たちに出した絵葉書もいくつか展示されていました。全部カタカナだったり、やさしい文で書かれているのがほほえましいです。

慧海のいろいろな事績や文献などが見られてとても興味深い展示でした。見ているうちに慧海の筆跡を覚えてしまいました。

図録には解説が書いてありましたが、その中に慧海がカーリダーサの「シャクンタラー」を訳していたことが紹介されていました。カーリダーサは3〜4世紀ごろのインドの大詩人で、「シャクンタラー姫」はその代表作です。岩波文庫になっているので昔読んだことがありました。そこで気になって調べてみたら、岩波文庫版は辻直四郎と言う人の訳で、東京大学名誉教授で東洋文庫理事長だったという人。慧海との接点はなさそうです。さらに、辻直四郎は東大で高楠順次郎から梵語を習ったそうなので、高楠順次郎を調べました(といってもWikipediaのいもづる)。そうしたら、この人はオックスフォードに留学して、西洋人のインド学者からサンスクリットを学び、帰国後東大で教えていたという。しかも、高楠順次郎の生年は河口慧海と同じだった!慧海がチベットへ仏典を求めて苦労していた時、すでにこの人は東大教授になって、さらにオックスフォードから博士号をもらっていた。さらに、辻直四郎もオックスフォードに留学しています。

慧海は東大エリートとは違う場所でサンスクリット語を極めていたんですね。
図録の解説には、文化人類学者の川喜多二郎は慧海のことを「たいへんにホビイ好き」と書いていたそうです。余技や趣味が豊富な人だったようです。また、晩年は還俗して在家仏教を興したということで、あくまでも学問ではなく仏教を広めたいという気持ちが基本にあったのでしょう。組織作りの名人でもあり、アイデア豊富なプランナーでもあった…ということです。
チベット旅行記が人気になりすぎて、そのイメージで語られることが多い慧海ですが、いろいろな面で才能を発揮したようです。

博物館を出たあと、ついでに正面にある大仙古墳を見てきました。
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