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2023年06月08日01:20

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マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか

…という本が以前に出たことがあります。

マルコ・ポーロで検索していると、この本も出てきます。出たころのことは覚えていますが、読む気になりませんでした。
つまり、マルコ・ポーロは中国までは行っておらず、誰かから聞いたことを「東方見聞録」に書いただけだということです。
そんなことはない、マルコは大ハーン様に仕えていて、コカチン姫をイル・ハン国に送り届けた…と、アニメのマルコを思い浮かべながら思っていたのですね。だから無視していたのですが。

とりあえずネットでこの本について書かれた記事なども見てみました。
そうしたら、その主張の根拠として、「東方見聞録」の内容に矛盾が多い。
万里の長城・茶・纏足など、外国人が興味をそそるようなことが書かれていない。
…と、こういったことのようです。

しかしそれに対する反論もありました。
例えば、万里の長城は現在見るような形になったのは明代のこと。それ以前は土をつき固めた版築だったので、あまり興味をひくものではなかった。また、纏足も始まったのは宋代ですが、一般に普及したのは明代だった、など。

なので改めてこのことについて考えてみました。読む気はないので、ネットで拾った記事で見た範囲でのことですけど。
まず、「書いていない」から「見ていない」という証拠にはならない。マルコは晩年「自分は見たことの半分も書かなかった」と言ったと言われています。
そして、元の時代の社会構造があります。元では政治の中枢にいるのはモンゴル人。そして色目人すなわち西域から来た人々、イスラム教徒など。漢民族は最下層でした。マルコにとって「元」とはすなわちモンゴルのことでした。漢民族が治めていた時代を知らないのです。だから中国に長年滞在しながら中国語はほとんど覚えませんでしたし、その必要がなかったのでしょう。つまり漢人との接触もそれほど多くなかったことでしょう。なので、後の人間から見て「中国に当たり前にあるはずのもの」という概念が通用しないのです。
纏足について言えば、一般に普及したのが明になってからということは、元の時代に纏足をしていたのは自分の足で歩く必要のないエリート層の深窓の女性だったことと思われます。なのでマルコが直接出会う機会はほとんどないでしょう。出会ったとしても、足のことに気が付いたり聞いたりするのか、また、それを説明してくれる人がいるのかと。外国人男性に「こうやって足を縛っているんですよ」なんて見せたり説明したりしないと思う。

それに、今回改めて「東方見聞録」を読んでみて、その内容の詳細さに驚きました。
行ってなくて書いたとしたとしても、本当に現地を訪れて詳しく見て歩いた人が絶対いて、そういう人から聞いたのでないと書けない。まともな世界地図というものがなかった時代、行かなくて想像できる内容ではありません。しかも、自分が生まれる前に父と叔父が元まで行ったルート、自分が行ったルート、さらに南海ルートを、現地に即した形で想像できるはずがありません。

そうしたら、こんな記事が見つかりました。
http://nagoyaalpine.com/80%E5%91%A8%E5%B9%B4%E4%BC%9A%E5%8F%B2%E3%81%8B%E3%82%89/2003%EF%BD%9E2010%E3%80%80%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E8%B8%8F%E6%9F%BB/

マルコ・ポーロがたどった道を、少しずつ分けて何年かにわたって、しかも自転車で踏査したという話です。…すごい。
そうして実際に現地を見たら、「東方見聞録」の正しさがわかったということです。
「東方見聞録」に書いてある通りのことを実際に見ることができた…これは感動しますね。
何百年も前に書かれたことと同じことを現代の旅で感じることができるなんて。
しかも、マルコと同じタクラマカン砂漠の南側の西域南道をちゃんとたどってるんですよ。このルートはまともな道が通ってなかったり、現在では旅行で行くことがほとんど考えられないような場所です。

あとの問題は、元もしくは中国側の記録にマルコ・ポーロに当たる人物が存在しない。フビライに仕えていたのに何の記録もないのはおかしいではないか。
といいましても、「東方見聞録」には元の宮廷の宴会の様子、フビライの狩りの様子が詳しく書かれていて、そこにいたとしか考えられません。盧溝橋のことも書いてあります。
公式な地位が与えられず、あくまでフビライの私的な使いとして中国各地に送られたから…という解釈もできます。
いた、あった、という証拠はあったという証拠を示せばいいんですが、なかった、いなかった、という証拠はどうやって提示すればいいんでしょうね。
なので、中国側の文献に登場しないからと言って絶対いなかった、という証拠にはならない…ぐらいしか言えません。行ってなかったらあの内容は書けない。それではだめですかね。

日本に関する記述は正確ではないと言われますが、なんで黄金の国と言われたのか「東方見聞録」の感想の方に(想像で)書きました。
弘安の役については間違いはあるものの大筋はその通りです。弘安の役の情報が西方に伝わったとは思えません。日本に関する記述は、特にヨーロッパでは「東方見聞録」にしかありません。だからこそコロンブスはそれを頼りに西回りで「ジパング」に行こうとしたわけで。

マルコが中国に行ってないなら、一体誰がその情報をもたらしたのでしょうか?
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