mixiユーザー(id:1940449)

2022年10月14日15:28

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相対主義について3



おれは 日本国憲法の基本はカントにあると思っている
ていうか 近代の法律法哲学の基礎はカントにあると思っている
それは おれ自身がそれらを理解する上で便利だからだw
でも多分間違いない

日本人は一般に哲学とか道徳論とかに無関心だ
なぜ無関心か?
一応 一揃いのそういう事柄に対し
余計なことで規定せずとも 世間が教えてくれると思っている
まー 一般にはそれでいいw
人に暴力をふるったり 迷惑をかけずに生きていければそれでいいと思っている
しかし 法 特に憲法についてはそれだけでは追いつかない

「世間が教えてくれる」とはいわゆる「多数決」のことだ
普通 こう考える
普通の人がこうする場合に迷惑のかからないように
全部多数決である
その価値観が重なったらジャンケンで決めるw
決まったことはみんなの意見だから守る

おいおい大丈夫かw
価値を多数決で決めるのか?w

言えるのは 日本は古来より理性より多数決による力を強く捉えているということだ
一方 カントをはじめとする現代社会では 徹底した議論が強く捉えられている
そこから生まれたのが立憲主義であり
言うなれば 立憲主義とは相対主義や多数決に対して理性の優越を示しているものだ
カントはそのために民主主義が絶対に必要であり
これ無くしては自由も期待できないとし
民主主義における自由とは 民主制において議論が尽くされるべきだと考えている
それは何のためか?
ホモサピエンスに共通するとカントが考えている共通善を広く行うためだ
誰か個人の利益に供するわけではない

例え多数が不都合だと考えたとしても
憲法は容易に変更できないようにできている
その時々で都合よく契約を変えられないようにする必要があるからだ

憲法は契約である 誰との契約か?
当然国民だ しかし生きている我々個人を指したものではない
それは その国家の善意思との最低限の契約である
社会でソフィストが多数をとるのに成功したとしても
共通善と結んだ契約は そう簡単には変更できないようにできている

そして その憲法を定める権利 憲法制定権こそ主権であり
その主権とはカントのいう共通する善だ
国民主権とは字面のようなホモサピエンス個人の単なる集合ではなく
人類共通の善なる意識の集合のことだ
その点を認識して改正等は行わなくてはならない
「アベ如き」にできる作業ではないのだw
ていうか 怖い怖いで変えたい奴らは 改正が済んだら腹を切れw
それが日本の保守の善に対する責任の取り方だ


腹を切れ ってのはお大げさに聞こえるだろう
しかし 三島もカミュも言ってるように
それが政治的行為の責任の取り方だ
「改正できたら俺は腹を切る」という政治家さえいたら
おれは迷わずそいつを支持するw

中島みゆきの曲

「君が孤独な時には
僕はポプラの枝になる
孤独な人を人につけ込むような事は言えなくて

君を泣かせたあいつの正体を僕は知っていた
引き留めた僕を君は振り払った遠い夜

ここにいるよ 愛はまだ
ここにいるよ いつまでも

空と君の間には
今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら
僕は悪にでもなる」

中島みゆきは当代きっての詩人だと思う
君は大衆 僕はテロリスト あいつは政治的先導者であるソフィスト
達成してヒーローにはならない
なるのは悪である

なぜなら共通善に対し悪を行うからだ
その責任は死である

続くw
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