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2022年07月31日06:02

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風林火山伝 第2部 第16話 次期将軍 足利義永擁立

伊賀上野城に入城した羽柴秀吉は、織田信忠と対面し、織田信長が武田信玄に討ち取られた無念の意を示すとともに、道中、信長の霊が秀吉の前に現れ、信長の霊は将軍 足利義昭にのりうつり生きていたが、明智光秀の仕業により、信長の霊が義昭より追い出され、
信長の霊はまたどこかへさまよい、義昭はこの世を去ったことを報告した。そして信長を討ちとった信玄、義昭を亡き者にした光秀の討伐を信忠に願い出た。

信忠も秀吉に同様に信長の霊が信忠の前に現れたことを話し、信長の霊がのりうつった義昭は光秀により亡きものにされたものだと信じ、光秀を討つことには同意したが、信玄を討つことについては次期将軍 義尋の後見役でもあり、信玄を討つことは足利幕府への反逆となるので否定的な考えを示した。そして、信忠は秀吉に光秀を討つために秀長の兵と合わせ、約5千の兵にて京に出陣することを許可するとともに、大和の筒井順慶に秀吉に合力するよう柴田勝家に命じた。そして翌、3月14日 羽柴軍5千は光秀討伐のため京に向けて出陣したのであった。

一方、同日の3月14日朝、越前の朝倉義景は義昭の隠し子 千王丸を次期将軍に擁立し、足利義永と命名し、総大将として兵1万を率いて一乗谷より出陣し、夕刻 小谷城に到着し、浅井長政と対面したのであった。

「ここにおわすは、総大将の足利義永公にござる。義永公は亡き公方様の実の子であり、義永公こそが次期将軍になるべきお方でござる。長政殿、ご存じの通り、足利幕府は武田信玄を後見役とし、次期将軍に足利義尋殿に据えるとのこと。義尋殿はまだ生後7か月であり、信玄の思いのままにさせてはなりませぬ。長政殿、わしと一緒に打倒、信玄のため、ともに戦いましょうぞ!」

「まさか、亡き公方様にこんなごりっぱなお子がいるとは夢にも思っていませんでした。確かに義永公は亡き公方様とよく似ておられますが、亡き公方様の子である証はあるのでござるか?」

「亡き公方様からは数年前、我が長女 しのとの間にできた子は公方様のお子であることを認める手紙を頂き、千王丸と名付け、千王丸が元服するまでこの朝倉家で育て、元服のおりには足利家の養子に迎えたいとの亡き公方様からの書状を頂いておる。長政殿、この義景とともに義永公を次期将軍に据えるべく立ち上がりましょうぞ!」

「義景殿、あいわかりました。この長政も千王丸様こそが次期将軍になるべきお方と存じます。浅井も朝倉に加勢いたしまする。」

そして、翌3月15日、朝倉、浅井連合軍は2万の兵を従え、再び、京に向かい上洛したのであった。

武田信玄は、忍びの知らせにより、朝倉、浅井に不穏な動きがあり、兵をあげ上洛の動きがある情報をつかみ、急ぎ武田勝頼を総大将とし、武田信繁らを従え約2万の兵にて3月15日 近江に向かい朝倉・浅井軍と戦うため京を離れたのであった。そして、信玄は
次期将軍 足利義尋の就任の儀式のため京にとどまった。また光秀も信玄とともに儀式に参加するため京に残ったのであった。

その後、羽柴秀吉は、3月14日、夕刻、大和郡山城にて筒井順慶と合力、あわせて、急ぎの使者を明智光秀に送った。その内容は、亡き義昭公・信長公の仇うちという名目で決戦の場を犬山崎に選び、決戦の日を3月16日と定めたのであった。





                                   つづく





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