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2020年10月16日01:38

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「私の巴里・パリジェンヌ」

「私の巴里・パリジェンヌ」朝吹登水子:著文化出版局

以前「私の巴里・アンティーク」という本を読んで感想を書きました。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1943876406&owner_id=1362523

そうしたら、通りがかりの古書フェアで「私の巴里・パリジェンヌ」という、よく似た装丁の本を見つけました。
同じ著者でもあり、読みたくなって即購入しました。

パリに暮らして出会ったパリジェンヌたちの生き方、日常生活を描写したもので、少し前の時代のパリジェンヌの生き方が実感できます。

そもそも著者は「パリ近郊にある全寮制の私立学校の生徒だった」そうで、そこからしてもう別世界です。
さらに、第二次大戦の始まる二年前に、外国人大学生のためのフランス文化講座を受講するためにソルボンヌに入学。外国人のため…と言ってもなかなかハードな内容で、中世文学や美術史やフランス民法などを学んだそうな。

そして、パリの生活を表すキーワード…キャフェ、パーティー、シネマ、バレエ、芝居、マルシェ…。
オートクチュールからプレタ・ポルテへ移行する時期のパリも見ていました。
昔は個人のアパルトマンでミシン1台で服を作っている人、数人のお針子さんで洋裁業を営む人がいました。洋服は自分に合わせたものを作ってもらうのが普通だった時代から、出来上がっている既製品を買う時代へ…。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合って友人になったそうです。ボーヴォワールの生い立ちなども書かれています。芸術家たちが好んで住んだモンパルナスで生まれ、同じ地区のアパルトマンに住み、キャフェ・フロールでサルトルと原稿を書きながら語り合い…。

第二次大戦が終わった後、歓喜や自由を謳歌し、哲学や詩や文学が開花した時代に現れたのはジュリエット・グレコ。黒いとっくりセーターに黒いパンタロン。戦前は、ちゃんとした家の娘は帽子と手袋が欠かせず、パンタロンで外出するのは論外だった。しかしグレコは新しい時代のモードを作り出した…。
サン・ジェルマン・デ・プレ地区には地下酒場がいくつかあって、そこには若い芸術家志望者たちが芸術論を戦わせていました。サルトルとボーヴォワールもいて、詩人のジャック・プレヴェールがいて、小説家や演出家志望の人たちがいて、グレコはその中でシャンソンを歌うことを勧められたそうです。
この本が書かれたときはグレコもすでに50歳になっていました。
それで、グレコの家に行ってフランソワーズ・サガンに会ったこととか。サガンはグレコの親友でした。

サガンはリュクサンブール公園に面した豪奢な近代的マンションに住んでいました。著者も訪ねたことがあり、サルトルが好きだと言って熱く語るのを聞いていました。サガンは戦争体験もあり、ユダヤ人を蔑視するファシストなど人種偏見には我慢できない、自分が正しいと思う信念のためには命を捨ててもいい、と話します。

著者が戦後パリで暮らしていたころは、銀行封鎖や新円切替などで手にする現金が限られており、モード写真の説明文の翻訳の仕事などを友達から回してもらっていました。しかし、その時友人の勧めで無名の少女の小説を翻訳することを勧められます。それが、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」でした。
この翻訳に取り掛かることができたのは、サガンが自分と同じように戦前の全寮制の女学校に通っていたこと、パリ社交界のコワイ老婦人たちのサロン、その取り巻きの野心に満ちた若者、毎日をやりくりして生きている文化人、インテリたち…そういった環境に共感できたからだそうです。

また、そういった有名人でない人のことも書かれています。
アンギラント姉妹はオペラ座通りで毛皮店を営んでいます。著者の父は毛皮好きで、昔パリにいた時お母様に毛皮を買ってあげたりしていました。著者は戦後パリに来た時、ギリギリの生活をしている状態でしたが、お父様から、パリの冬は寒いから毛皮を持っていなくてはいけません」と言って毛皮代が送られてきました。そんな贅沢を考えもしませんでしたが、お父様の気持ちを思って毛皮を手に入れようと思いました。しかし、著者は戦争直前にお母様が北軽井沢の養狐場から購入した銀狐を持って来ていた(!)のです。まずそれをストールに作り替えてもらうべく、毛皮店を探しました。最初に行った毛皮店では聞いてみると値段が少し高いと思いました。そこで別の毛皮店でも値段を聞いてみようと思ったのがアンギラント毛皮店だったのです。そこではずっと安い値段で提案してくれたので、その毛皮を預けることにしました。そのあと毛皮のコートも買いました。そしてパリにいる日本人の友人たちのもこの店を紹介しました。そうしてアンギラント姉妹とのおつきあいはずっと続きました。
しかし、この姉妹はかなり過酷な人生を送ってきたのです…。

医学博士夫人、テレーズ・トワイエローザ夫人は101歳。1876年生まれ。…!!!
ベル・エポックの華やかな時代の思い出を語ります。戦後は華やかな舞踏会はあまりしなくなった…などと。戦後、ってまさか第一次大戦後?
ヴィクトル・ユーゴーの国葬を見た…。
長生きの秘訣は薬を飲まないこと。夫も息子も医者なのに…。

総じてパリの女性は自分のエレガンスを持っています。なんでもない普段着でも、身に着けているものすべてが調和して、その人の個性に合っています。さりげない装いがとてもシックで感心させられます。

しかし、日本よりはるかに自由で平等なイメージのあるフランスでも、女性特有の苦労はありました。ウーマン・リブの運動家たちのことを書いた章もあります。1968年の五月革命の時でも、平等を唱える左翼学生たちは、女学生にはタイプ打ちなど補助的な仕事しか与えませんでした。女性解放運動家たちは、女性たちがが自分の持つ権利を知る必要があると考え、法律相談の窓口を設置したりしました。家庭での地位も、職業でもまだまだ男性の優位が当たり前のように存在していました。農村では昔ながらの封建的な家族制度が続いていました。

この本の内容は、1970年代に雑誌「ミセス」に連載されたものをまとめたそうです。ここに書かれたパリジェンヌの姿は、少し古い時代のもののようです。
「ブダペストの古本屋」と同じように、著者の年齢や書かれた時代など、文章の中からおのずと時代の雰囲気が現れてきます。わずか数十年のことですが、現在とはすでに暮らしぶりが変化していることがわかります。アパルトマンの一角で、ミシンを置いて仕立てをしている人がいて、そういったところで洋服を仕立てるのが普通だった時代…。

著者がパリで女学生だった時と、戦後のパリ生活の間に空白があるので、調べてみました。でも、どこのプロフィールにも女子学習院を中退、その後フランスへ留学、としか書いていません。
そうしたら、かろうじて見つかったのが…。16歳で結婚した、という話。新婚旅行で訪れたパリで、フランス語を学びたいという気持ちが沸き上がりました。もっと学びたい、そう思った登水子は離婚してパリに渡ったのです。もともとお父様もロンドン留学の経験があり、夫婦でパリ暮らしをしていたこともあります。両親はイギリス人の家庭教師をつけて、子供たちに新しい教育を受けさせてきました。向学心の強い登水子は家庭に入ることが耐えられなかったということです。そうしてパリの女学院で寄宿生活を送り、ソルボンヌで一生懸命学ぶ日々を過ごしていました。しかし、戦争が激しくなって帰国を余儀なくされるのです。

このあたり、「ブダペストの古本屋」の徳永康元氏の境遇と似てますね。留学中に戦争でやむなく帰国。

登水子は戦争が終わってから再びパリへ行きました。この本の中では、マッカーサー司令部発行のパスポートを持って、貨物船で55日かけてたどり着いたことが書いてあります。一度来たら簡単には帰れないという覚悟が必要だったのです。
後にパリで出会ったフランス人男性と結婚しました。
しかし晩年は日本に戻り、軽井沢のヴォーリズ建築の朝吹家の別荘でフランス人の夫と共に暮らしていたようです。

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