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2020年05月28日00:15

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伍連徳〜伝染病防止に賭けた人生〜(4)

その後、ペストは予想通り再びやってきました。
1917年8月、内モンゴルのイフ・ジョー盟ダラト前旗(盟、旗は行政区画)でペストが発生した。ペストは内モンゴルから羊の皮を売る隊商に従って山西に到達しました。伍連徳はアメリカ人助手を山西に派遣しましたが、現地住民とトラブルを起こして反発を招きました。そのためなかなか防疫の重要性が伝わらず、16000人の死者を出してようやく終息しました。

その後伍連徳は民国政府とかけあって、多くの部署と協力しながら投資を集め、1918年1月に北京中央病院を建設しました。これは中国人自身が初めて建てた大型病院です。
1919年の夏、今度は新たな疫病が現れました。ハルビンにコレラが発生したのです。もとは8月3日に上海から来た人物がコレラで死亡し、そこから広がったのです。コレラはコレラ菌が小腸に取り付いて、猛烈な腹痛と下痢と嘔吐を起こし、脱水症状を起こして亡くなります。衛生状態の悪い所で腐敗した食物や不浄な水などから伝染します。そのため水源を改良して清潔な飲料水を提供することが重要です。この時も伍連徳は防疫活動に当たりました。

2年後の1920年10月、今度はハイラルでペストが発生しました。病人はソ連の警備局員で、妻と3人の子供も亡くなりました。伍連徳が調べると、この妻は満州里に親戚があって、たびたび行き来していました。そしてそれ以前から中ソ国境地域で腺ペストが発生していたことがわかりました。伍連徳はハイラルの家を逐次調べ、さらにソ連の警備局員の兵舎も全て調べ、患者が見つかると直ちに隔離しました。しかし旅館にいた発病者とその接触者合わせて9人が隔離されてから逃げ出しました。

1921年1月22日、ハルビンでペスト患者が発見されました。ハイラルからの逃亡者がもたらしたのです。しかも逃亡者の一人は、満州里からハルビン行きの列車に乗り、フルンボイルで途中下車して友人を訪ねて泊まりました。数日後その家からペスト患者が出て次々死者が出ました。

この時東北三省を支配していたのは軍閥の張作霖でした。中華民国が成立して清朝は倒れたものの、中華民国はなかなか全土を統一することができず、各地に軍閥政権ができていました。張作霖はその中でも特に強力で、東北地方でほとんど独立国のようにふるまっていました。張作霖の関心は自分の支配を広げることで、伝染病対策には無関心でした。
伍連徳はこの時も前例に倣ってまずハルビンを区分けして管理すること、そして病人と接触したものを収容する臨時病院に収容し、経過を見たのち発病したら専用病院へ、発病が見られなかったら帰します。ハルビン駅でも検疫を行い、特にこれ以上病原菌が南下するのを防止しました。

さらに伍連徳はフルンボイルにも行きました。ここでは隔離が厳格に行われておらず、死者の町のようになっていました。現地の人たちと協力して隔離と消毒を徹底すると、死亡率は下がっていきました。
それを確認して伍連徳はハルビンに戻りました。友人や助手の医師たちも多数亡くなりました。防疫活動は命の危険を冒した行動なのです。
4月になると死亡率も下がりました。終息したのは10月になってからです。ペストはウラジオストクまで達していました。

このペスト禍の後、伍連徳はハルビンに病院と医学校を建てるため奔走しました。
1925年、ハルビン病院ができました。
1926年、医学専門学校ができました。伍連徳は校長になりました。これは現在のハルビン医科大学です。さらにこの年、東北防疫総会は傅家甸の保障街に事務所棟を建てました。建物は木造レンガ混合のロシア式建築です。赤レンガの大きな建物で、現在はハルビン伍連徳記念病院となっています。庭には花壇のある広場になっていて、伍連徳の半身像が建てられています。院内の1階ホールには伍連徳の油彩の肖像画が掛けられています。

1931年の満州事変で日本軍の攻撃を受けたため。伍連徳は21年の年月を過ごして防疫に心血を注いだハルビンを離れました。
その後世界は第二次大戦、さらにその後は東西冷戦となり、伍連徳は故郷のペナン島に戻って1960年に81歳の生涯を閉じました。伍連徳の功績もしだいに埋もれていきました。(追加情報:ペナン島には福建系と広東系のコミュニティがあるということでしたが、伍連徳は広東系でした)。

しかし歴史は再び繰り返します。2003年、今度はSARSが発生しました。中国全域に広がり、防疫に当たる必要ができたころ、人々は伍連徳の名前を思い出しました。この偉大な医者、ペスト防疫の闘士はふたたび中国人の関心を呼び起こしました。伍連徳が当時行った隔離方法は21世紀になっても有効で、SARS対策の基本になりました。SARSが収束してからも伍連徳は国民の心に残りました。中国東北最大の都市ハルビンの住民は、この一代の名医のもっとも多く、最も大きく、最も長く、そして最も最初に恩恵を受けた住民です。

伍連徳は故郷の誇りであるとともに中国人の誇りです。同時にハルビンとハルビン人の誇りでもあります。そして当然ケンブリッジの誇りでもあります。

(了)
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