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2020年05月21日23:05

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伍連徳〜伝染病防止に賭けた人生〜(1)

これまで小説とドラマで1910年のハルビンのペストのことを紹介してきました。しかし、小説もドラマもフィクションです。もともとはハルビンに関する本を読んだときにこのペストのことが書いてあって、それで知ったのです。なのでもう一度その本を引っ張り出してきて、ペストに関する部分を読んでみました。そうしたら、その先までずっと伍連徳の人生を紹介した内容になっていました。
そこでこの本に書いてあることを訳してみようかと思ったのですが、日本で日本語に訳したものをネットに載せても著者に影響はないかとは思うものの、無断で本に書いてある文章をそのまま載せていいものかと思ったことと、長くて大変なので要約して書いてみます。

まず1910年の夏、西シベリアからアムール川(黒竜江)河口のニコラエフスクでペストが発生しました。そこは人口も少なく医療的措置で蔓延を防ぐことができました。10月初めになると、外バイカルからアムール川流域ではタルバガン猟をしている中国人がいて、帰郷を始めました。タルバガンはシベリアからモンゴルにかけて生息するげっ歯類です。タルバガンの皮は大変質が良く高値で売れるのです。その後もロシアで中国人の工員が一夜に7人死亡したことがあり、衣服や家が焼かれて伝播を防ぎました。

さらに10月下旬には満州里の旅館で主人と客が相次いで亡くなりました。11月にはハルビンに達し、黒竜江省各地に広がりました。特に病人が多かったのはハルビンの傅家甸(フージャデン)です。現在は道外区と言われる地域です。

ハルビンはロシアのシベリア鉄道に続く東清鉄道と連携する重要な都市で、ロシア人が鉄道周辺地域を支配していました。さらに中国人も多数入ってきました。中国人の居留地が傅家甸です。清朝ではここに行政府を作る必要を感じ、浜江庁道台府を作りました。道台府の建物は近年になって復元されています。この傅家甸で毎日のように死者が出る事態になりました。

ハルビンは鉄道の要衝で、シベリア鉄道を通じてパリまでも通じていました。貿易の拠点となってヨーロッパ人もたくさん入ってくるようになり、20世紀には日本人もたくさん入っていました。ハルビンでの疫病の発生は世界に伝わりました。
特に日本とロシアは日露戦争以来満州地域の覇権を争っており、もし清朝政府が疫病を抑制できなければ武力行使をも視野に入れて都市封鎖をするつもりでいました。そこで清朝政府は施肇基という人物に疫病防止の任務を任せることにしました。施肇基はアメリカのコーネル大学で哲学博士を取得し、帰国後は英語とフランス語を駆使して外交活動を行っていました。ハルビンの道台府で道員を務め、ロシアと日本の折衝にもあたっていました。任期中は清廉な人物として知られていました。防疫を任命されたときは北京外務部の外交官を務めていました。

ハルビンの防疫を任された施肇基が思い浮かべたのが伍連徳です。
伍連徳は当時イギリス領だったマレー半島に属するペナン島の生まれです。ペナン島には19世紀ごろから多数の中国人が移住していました。特に多かったのが福建と広東からで、それぞれのコミュニティが作られていました。伍連徳はイギリスのパスポートを持っており、ケンブリッジ大学で医学博士を取得しました。さらにドイツのハレ大学とフランスのパスツール研究所で微生物学を研究しました。英語、フランス語、ドイツ語に堪能でした。しかし福建語と広東語は話せますが、北京語が話せませんでした。29歳の時に北京に来て、天津陸軍軍医学堂の教師に推薦されました。そのため教師について北京語を勉強しましたが、あまり流暢ではなかったそうです。

施肇基は外交視察の際にペナン島を訪れて伍連徳と会ったことがありました。早速伍連徳を北京に呼び寄せ(天津と北京はすぐ近く)、ハルビンで疫病が発生し、ただちに専門家の派遣が必要なことを話しました。そして日本とロシアが防疫を理由にハルビンの占領をもくろんでいること、この任務には疫病を抑えるだけでなくその領土的野心をも防ぐ役割があることを伝えました。
伍連徳はこの任務を承諾し、天津陸軍学堂の学生林家瑞を選び、二人で医療機器を取り揃えて直ちにハルビンへ出発しました。

1910年12月24日、列車はハルビンに到着しました。伍連徳は道台府の道員、于駟興を訪ねて現地の状況を聞きました。この病気はいささか奇妙なところがあるということです。まず熱が出て、咳が出る。そして喀血して死に至る。皮膚は紫がかかった黒い色になる。さらに、傅家甸の中国人は、山東や直隷から出稼ぎに来ている貧しい農民が多く、年末になると帰省が始まることも聞きました。そうなったらさらに病気が広がる可能性があります。しかもここには西洋医学の心得のある医者がいない。さらに伍連徳は、疫病が始まった満州里でのタルバガン猟のことを知りました。タルバガンの皮は高値で売れるため、1万人もの人がモンゴルや外バイカルへ出かけて猟をしているというのです。また、奉天(現在の瀋陽)から二人の医者が来ていることも知りました。二人は発病した人は直ちに臨時の病院に送っているそうです。臨時の病院といっても、商会の建物を改装しただけの簡単なものでした。

伍連徳はその病院へ行きました。医者のうち一人は姚といって、北洋医学堂で学んだ医者でした。姚医師は、こんな簡単な病院では隔離も十分できないといいました。しかし死亡者を解剖したところ、肺に異常が見られたということでした。
12月27日、新たな死者が出たということで、伍連徳は駆け付けました。死者は中国人と結婚した日本人女性です。商売をしていたそうです。(こんなところに来ている日本人女性ってどういう人だったのか気になる…)。伍連徳は解剖をして臓器からサンプルを採取しました。遺体は縫合して衣服を着せ、丁寧に埋葬しました。この時代の清朝では遺体を解剖することは許されていませんでした。しかしそんなことを気にしている場合ではありません。採取したサンプルを顕微鏡で調べると、ペスト菌が確認されました。また血液からもペスト菌群が発見されました。

伍連徳は施肇基を通じて朝廷に報告を出しました。
・この疫病はペストであることが確認された。
・人と人の間で伝染するので、ロシアと協議して、シベリア鉄道からハルビンに入ってくる列車の規制を要請する必要がある。
・隔離病院を作る必要がある。そして人員を増やす必要がある。
といったことです。

さらに道台府には、ハルビンから南下する鉄道を厳しく巡察して、病人が発見されたら直ちに隔離する指令を要請しました。また南満州の大連線を掌握している日本にも連携して同様に規制することを要請する必要がありました。

伍連徳はロシアの鉄道責任者のところへ行きましたが、あまり相手にされませんでした。検査結果の話をして、どうにかロシアの病院へ行くことは認められました。
ロシアと日本領事館へも行きましたが、防疫は自分たちのところで行うからとあまり協力的ではありませんでした。フランス領事館でも相手にされず。イギリス領事館でも中国人を見下げていて、伍連徳はイギリスのパスポートを持ち、ケンブリッジ大学卒業だということでも相手にされませんでした。唯一相手にしてくれたのはアメリカ領事です。領事はハーバード大出身で、のちに北京協和病院の建設にかかわった人物です。伍連徳に対して友好的に振る舞い、防疫のための協力を受け入れました。

さて、姚医師が使っている、商会を改装した病院には日本人医師がいました。ペスト菌を発見した北里柴三郎に師事し、その経験からハルビンに派遣されてきていました。この日本人は数百匹のネズミを捕まえて解剖しましたが、ペスト菌は見つからなかったといいます。なのでこの病気はペストではないと結論付けていました。伍連徳は遺体からペスト菌が見つかったことを話しましたが、北里柴三郎はペスト菌はネズミの血を吸ったノミが人に取り付いて起こるといっているので間違いはないと言って、ネズミからペスト菌が検出されない以上ペストではありえないと言い張りました。

伍連徳はこの数日でずっと考えていました。このたびの疫病は症状がすべて同じです。発熱、せき、吐血。病巣は肺にあります。これは「肺ペスト」と呼ぶべきではないかと。実験室での研究を重ねて、これは新型のペスト、「肺ペスト」だと結論付けました。

1911年の年が明けました。1月1日、伍連徳はロシアの病院を訪ねました。ハルビンにはロシア人が多数おり、病院も規模が大きい。院長はユダヤ人で、おじがインドのムンバイでペストの治療に当たったことがある人物です。伍連徳の話は聞いてくれたものの、「肺ペスト」という概念には賛同しませんでした。
(この文章の日付は西暦です。旧暦で生活していて正月も旧暦の「春節」で祝う中国人、ユリウス暦で生活していた帝政時代のロシア人は、1月1日でも新年のお祝いはしなかったと思われます)。

(続く)
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