mixiユーザー(id:9160185)

2020年03月22日16:16

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熱情だけは認める

三島由紀夫の映画観てきました。日曜なので臭いおっさんいっぱいいたらやだなと思っていたんですが、コロナのせいなのか、それとも高知県人にとって三島由紀夫という人の需要がないのかそれは定かではないですが、とても面白い映画でした。面白いっていうか、楽しいっていうのかな。すごくテンションの上がる、くすぐられる映画でした。

三島由紀夫というと、あの、最後の演説の場面ぐらいしか知らなくて、ゴリゴリの軍国主義者なのかな、みたいな感じでとらえておったのですが、映画の宣伝を見たときになにかこれは思っていたのと違う人だぞ、と興味を持ち、以前にTBSで放送された、件の映画の軸になっている討論会の映像をYouTubeで見たのですね。そしたら、なんというのか、彼の人間的吸引力とでもいうのかな、それに惹きつけられてこれはちょっと映画観に行かなくちゃいけないと思って。

で、感想なんですけども、思想的なものには僕は全く興味なくって。そんなもんどうでもええわって感じなんですけど、これに限らずね。でも、もしかしたら三島にしても全共闘の人たちにしても、そこはたいして重要なことではないといったような印象を受けました。というと語弊があるかもしれない。名目上討論というものになっているけれども、お互いにその、立ち位置を超えたなにかを求めてそこに集まっているような、そういう感じがしたんですね。三島にしても、学生側にしても、(俺がこう言ったらこいつはなんと返してくるだろう)という感じで、純粋にやりとりを楽しんでいるように見えました。芥さんという方は存じ上げなかったのですが、この方もなにか猛烈な印象を残す方ですね。彼は討論を通じて凄く三島由紀夫のことが好きになったという印象を受けました。少なくとも、好敵手といったような手ごたえを得ていたと思います。

僕は大学とか出ていないのでね、難しい話は抜きにして、要するにこの人たちは、記号みたいに生きている連中が嫌いなんだろうな、と。常にその先を求め、常に混沌を求め、常に先に進ませてくれるなにかを求めていた。現状に寄りかからず、肩書に寄りかからず、成果に寄りかからず、勝敗に寄りかからなかった。違う舞台で同じように生きてきた人たちが顔を突き合わせるのだから、ある種の共鳴があってしかるべきなのだと思います。

僕は詩を書いて、詩人だと言っているけれども、別に詩人である必要はない。また逆に、詩人でなくなったとしても詩を書くことになんの制限もない。書きたくなったら書く。わかります?大事なことじゃないんですよ、状況なんてもんは。ただ、流れというものに完全に抗うことは出来ない。運命や宿命という意味においてね。主体性はあくまでも自分にある。何かの定義の為に自分のシステムを変えることはない。

お前自身にたとえるとかなんておこがましいことをするんだ、と思われるかもしれませんが、人生に程度なんてもんはないんですよ。ひとつとして同じ尺度で語られるものなんてないんだからね。

ただ、あのラストはないわ。どんくさいわ。三島がもしもいまも生きていたら…みたいなの。三島さんが見たら鼻で笑うよ、たぶん。

そんなことより三島由紀夫が大型家電量販店に冷蔵庫を買いに行くコントを思いついたのでいつかやりたいな。

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