mixiユーザー(id:1940449)

2019年04月28日20:44

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自然科学としての宗教3

いったいどこまでが宗教で
どこからが宗教ではないのかという問題です

人は危機に瀕した場合 悲鳴をあげます
助けてくれとの思いを込めて 誰もいないのを知っていても悲鳴をあげます
このままの状態が続けば死んでしまう
未来をそう予測して助けを呼ぶわけですが
通常ならば信じられないような可能性を信じて悲鳴をあげるわけです
これは宗教でしょうか?

もっと面白い事例があります
岩登りをしていて どうにも行き詰ってしまった時
垂直の岩場で一歩も動けなくなってしまった時
人は面白い動作をします
先ほど試して届かなかったホールドにもう一回手を伸ばします
彼は そのホールドにはどうあがいても届かないことを知っています
しかし しばらく考えてはまたそのホールドに手を伸ばしたり
つかめるはずのないツルツルの岸壁を手探りで撫でたりします
そのホールドに手が届くと信じたいがあまり
あるいは
ツルツルのスラブに突如気がつかなかったホールドが現れている奇跡を確かめる為に
彼はその行為を繰り返します
このルートを登らずにいればよかったと
家にいて家族とテレビを見ていればよかったと
考えてもしょうがないことを考えたりもします
そして結局 最後は力尽きてそこから墜落します
彼の動作は宗教でしょうか?

おそらく
多くの人はそれらを宗教と呼ぶにはあまりに本能的だと判断すると思います
宗教とはもっと整然と整理されたもので
無意識にする行動を宗教とは呼ばないというでしょう
しかし こういった無意識の行動ややらずにはいられない行動はどこからくるのでしょう

平常時であれば私たちはそんな行動をとりません
無駄だからです
誰が2.5mも上の天井に触りたくて何度も手を伸ばしたりするでしょう
でも そこに手が届かなければ死ぬともなれば
人間はすべからく手を伸ばします
いよいよ危ないとなれば どんな人でも悲鳴をあげて助けを呼びます
そこのところはあらゆる人類共通です
普通であれば非合理である事柄を信じて
そこに可能性を託します

日本人の多くは日常的にはあまり信仰心があるとは言えません
もちろんこれは他の地域と比較してという話で
信仰がないわけではありません
慣習としてないというだけで
人間としての普遍的な宗教的概念は持っているし
また その概念に沿った行動も行います
そして 日本人も例えばキリスト教が強い勢力を張っている地域で生まれ育てば
熱心なキリスト教徒になる可能性は 他民族と全く同じです
どんな地域のどんな子供も
その地域性という生まれ育った外的要因で強い宗教的影響を受けてその宗教に属することになります

我々はいざとなれば
あるいは その時代 その環境に浴すれば
いとも簡単に神仏を信じます
であれば 最初の二つの設問は
ごく初期的な宗教の表れだと言ってもいいことになると思います

人間は 宗教的な素地を生まれながらに持っている
そして その宗教的な行動を作り出す概念は
概して不合理を信じるバグを内包するシステムであるというような話です
もともと その部分の器官は
本来的に宗教を信仰する為に設計された(人や神が設計したというような意味ではなく)ものではないので
人間本来の行動規範と矛盾する行動をとらせてしまっている可能性があると予想してもいいと思います

なぜ いもしない神仏を信じ
来世や地獄や悟りを信じるのか
多分その答えは 宗教学にあるのではなく
自然科学としての宗教にあると思われます



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