mixiユーザー(id:1940449)

2019年04月27日18:30

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自然科学としての宗教2

人類は祈ることをやめられません
どんな地域に住む どんな文明の下に育とうとも
何かあれば必ず祈ります
これは 今我々が思うような宗教概念とは少し違いますが
将来を予測し そこに不安を持つことができる人類は
それがゆえに祈らずにいられません
それは普遍的な人類の特性であって
種としての人間だけのものです

宗教概念とは 元々
規範や死生観に伴うものではなく
ごく単純に 将来予測を行って行動を選択できる人類の脳に由来するだろうということです
その意味において
宗教とは何かを考える時に
既存の創唱宗教のような概念化は全く関係ありません

宗教とは 止むに止まれず祈るという
人間の本性に由来する行為であって
それはある時期の脳の突発的な変化によるものです
いわば 生物学と言いますか
自然科学として考えることが可能なものです
そして
その意味において宗教は進化しません
宗教が生まれて以来 人間の脳はなんの変化も起こってないからです
宗教における人間の概念は その部分では一切変化せず
宗教はその発生時にすでに完成されたものとして概念化されたと言えるでしょう

変化は外的な要因であって
例えば 文字が使用されるようになったとか
共同体の集団が大きくなったとかですが
大きな影響は認知構造の変化にあると思われます
ここでいう認知構造の変化とは
「自分が信じていることを相手も信じていると信じる」
という信念を持つことができる能力の進化です
宗教は 少なくとも自分以外の人間とこの信念を共有することから始まります
これも人間しか持ち得ない認知能力で
これはおそらく言語を共有することによって支えられる能力です
たとえ その使用する言語が異なっていても
言語を使用する限りは 宗教的概念を持つ相手だと認識できるわけですが
そこからその概念に沿ったストーリーが生まれ
様々な宗教に分化して行ったのだと思われます
ただその分化した個々の宗教については
いわば言語における方言や違う共同体の使用する言語のようなもので
その違いそのものに宗教的概念の本質は存在しません
あくまでも 宗教は自然科学として
言語や 視力による情報処理や 手でものをつかむ器官と同じ原理で説明されるべきものです
言ってみれば
脳がコンピューターだとすれば
プリンターやモニターがそれに付随して様々な利用の仕方があるように
外部装置が変化していくにつれて出現したものが現在も残っている宗教であると言えます

よく 私は無神論者であると表明する方がいますが
それも あまり意味のあることだとは思われません
その人にも 人間である以上
なにがしかの祈りを捧げるような行為はあるわけです
人である以上 宗教的概念と無縁で生きることはできません
落ちるものを見て
それが大切なものであれば 落ちないでくれと願うと思います
ただ その人にしても落ちないでくれと祈ったところで
それが何の影響も及ぼさないことは十分に承知しているはずです

それでも人は祈ります
それがどういった脳の部位から生まれ
どうやって我々の無意識下の行動につながるのかははっきりしません
おそらくは意識すらできませんが
我々に祈らせる何かは
多分 宗教や祈りとは全く別の機能であったと考えられます
それは どの石が石器に向いているか
どこをどう叩けば薄い剝片が手に入るかといった思考と同じような要因から作り上げられたものです
人の脳が作り上げたものに
環境に存在する外的要因が物語をつけたものですから
当然 現実に神も仏も存在しません
霊も魂も妖精も同じです
同時に悟りもありません
それは人間が人間で亡くなることと同義だからです

ただ宗教者はおそらくこのような説には見向きもしないでしょう
彼らには何の関係もないことのように見えるからです

科学も哲学も
それを成り立たせる科学的実績が発見されるたびに
その根本からの変更を余儀なくされます
道徳的な価値ですら時の科学的な実績に影響を受けます
唯一 宗教だけは頑なにその独立と不可触的に存在することを望みます
しかしながら そのままそれを貫けば
いずれ世界と遊離してしまうことは目に見えています

文化相対主義はそれを許しますが
それがいつまでも続くとは到底思えません
かといって 人間である以上消し去ることもできません

まー 言ってみれば
宗教そのものが人間にとって避けて通れない業のようなものだということやねw
厄介な業だw
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