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2018年12月10日00:28

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福島旅行記(7)鶴ヶ城天守閣

仕事が忙しすぎて旅行記がなかなか書けません。公益法人への移行が最後の追い込みで…。

入場券を買って天守閣に入ります。
まずは塩蔵。石垣の土台のあたりで昔のまま残っているところです。通るとひんやりします。なので貯蔵庫としてちょうどいいとか。そこを通って天守閣の中へ。

再建のお城は外観はお城でも、中はガラスケースの並ぶ博物館です。五層の天守に合わせて5階まであります。今年は戊辰150年にちなんだ企画展が順次開かれています。この時は「1868年の会津藩」という企画展が行われていました。

展示の最初は会津藩の変遷です。会津は時代によって藩主も領地も大きく変わり、藩主とその時に治めた領地の範囲を示す地図が示されています。仙台の伊達家の飛び地になっていたこともあります。
江戸時代に2代将軍徳川秀忠の庶子、保科正之が会津藩主となり、のちに松平姓に改めて幕末まで続きました。そのため会津では徳川家に対する忠誠心が強く、代々の藩主に徳川家に従うように家訓に定められていました。

幕末に藩主だったのは松平容保(かたもり)です。松平容保は1862年に京都の治安維持のために京都守護職に任命されます。当時の日本は開国か否かで騒然となっていた時期で、京都には尊王攘夷派や浪人が集まり不穏な空気が流れていました。そのため京都守護職が設置されました。会津藩ではそのような役職は負担が重過ぎるということで賛否両論が起こり、容保自身も最初は乗り気ではありませんでした。しかし幕府の命令に逆らうわけにはいきません。「断る」という選択肢はありませんでした。

容保は真面目で忠誠心が強く、受けたからには役目を全うするべく努力しました。長州が天皇を拉致しようとする陰謀も防ぎました。そして時の天皇、孝明天皇は容保の働きに対して高い評価を与えました。その証が「ご宸翰」です。容保の働きに対するお褒めの言葉が書かれたものです。今回の企画展ではこの「ご宸翰」が展示されています。「ご宸翰」を天皇が出すのはそれほど珍しいことではないそうですが、容保にはこの時御製(天皇が作った和歌)二首も与えられました。その御製も展示されています。ご宸翰だけなら珍しくありませんが、御製が添えられているのはめったにないことだそうで、孝明天皇の容保に対する信頼がうかがえます。

しかし孝明天皇は急死します。そこから会津の運命が変わってしまうのです。
天皇に逆らった賊徒のはずの長州が薩摩と手を組み、徳川幕府ではこれからの政局を担うことはできない、いつまでも政権を握っているのはけしからん、ということになっていきます。幕府でも将軍家茂が若くして亡くなり、子供がなかったため一橋家の慶喜が将軍になります。慶喜は、薩長が徳川家がいつまでも政権を握っていることは天皇に逆らうことになる、という口実で徳川家をつぶそうともくろんでいることを見抜いて、さっさと大政奉還に踏み切ります。
しかし薩長はもっと狡猾でした。大政奉還したのに領地の召し上げや過酷な要求を突き付けて、逆らったら賊徒、朝敵認定です。
ここで戊辰戦争が起こるわけです。徳川家と会津藩はもちろん、他の藩も薩長よりは徳川につく方が多かった。しかし鳥羽・伏見の戦いの時に、兵力では圧倒していていたはずの徳川方は不運な失態が続いて次第に不利になっていきました。しかも薩長は新式の西洋風の軍備を整えていました。さらに薩長は岩倉具視が捏造した「錦旗」を掲げます。錦旗は天皇の意思を受けた証。錦旗を攻撃したら即「朝敵」です。そこで徳川から薩長に寝返る藩が続出しました。

徳川慶喜はこれ以上戦うのは無益とあきらめ、大阪城から大阪湾に停泊していた軍艦・開陽丸に乗って江戸に帰ってしまいました。そして後々まで「敵前逃亡」とそしられるのです。しかも開陽丸は幕臣の榎本武揚がオランダ留学してオランダで建設させて一緒に帰国して持って帰ってきた軍艦ですが、艦長の榎本武揚を出し抜いて置いてけぼりにして大急ぎで出航させたというあわてぶりです。
その時松平容保も道連れで開陽丸に乗せられました。あまりにもあわててせかされたので、大事な大事なご宸翰を置いてきてしまいました。

鶴ヶ城の展示の説明によりますと、家臣がそれを見つけて江戸まで持って行って容保に届けたのですが、畏れ多くもご宸翰に手を触れるとは何事か、と叱られたとか…。そんな理不尽な。置いていっっちゃったからお届けしたのに…。これこそは容保が孝明天皇の信頼が厚く、決して賊徒・朝敵ではない証です。決して失うわけにはいかないものです。

薩長は捏造した錦旗のもとに「官軍」を名乗り、逆らう者は全て「朝敵」認定しました。特に長州は会津に対する恨みが深く、会津に対する罪状をデッチあげたあげく容保の首級まで要求してきました。江戸城は無血開城したのに、「官軍」は会津は反逆者として徹底的につぶそうとしました。東北諸藩はそれはあまりにも過酷すぎると松平容保の助命を嘆願します。さらに越後諸藩も加わり、奥羽越列藩同盟ができます。当初は助命嘆願のための同盟だったのですが、「官軍」は聞く耳を持たず東北に軍隊を進めてきたので応戦せざるを得なくなります。

そうして官軍は東北諸藩や城を攻め落として進軍していき、ついに会津まで到達しました。官軍が城下に迫ってきたときに少年たちで構成された白虎隊も出陣しました。
進軍してくる官軍を押しとどめることができず、鶴ヶ城では籠城することになりました。戦闘員は戦場に出払っているので、官軍は鶴ヶ城はすぐに攻め落とせると思っていました。しかし鶴ヶ城は天下の名城と言われ、北出丸まで進んできましたがどうしても攻め落とすことができません。しかも戦闘員は出払っているはずなのに、城から猛攻撃が繰り出されてきました。指揮をしていたのは山本八重、のちの新島八重です。八重は砲術指南の家に生まれて銃の扱いを習っており、鳥羽・伏見の戦いで死んだ弟の軍服をまとって新式のスペンサー銃を肩にかついで籠城に入ったのです。

しかし最新の銃砲を備えた官軍は鶴ヶ城に次々と弾を撃ち込んでいきます。明治初期に撮影された写真に見るように、お城は砲撃でボロボロになっていきました。松平容保はやむなく降伏の勧告を受け入れひそかに使者を出しました。鶴ヶ城では女たちが残った白い端切れをかき集めて白旗を繕い、それを掲げて開城したということです。

会津を攻撃した時に使われたという錦旗が展示されていました。ドラマなんかだと色鮮やかな色ですが、実物はモノクロの地味なものでした。
さらに、容保が官軍の前に降伏した時の錦絵も展示されていました。裃姿で官軍の前に出ています。足元には赤い毛氈が敷かれています。この毛氈はのちに切り分けられて関係者がそれぞれ所持するようになり、泣血氈と呼ばれました。泣血氈の断片も展示されていました。

そのほか名刀和泉守兼定も展示されています。
また、この戦の時は会津の女性たちも長刀を手に戦いましたが、その様子を描いた錦絵もあります。史実とはかなり違う絵だそうですが、のちに「娘子軍」と呼ばれ、勇敢に戦った様子が伝えられています。特にそのリーダー格が中野竹子で、才色兼備で勇ましい女性でしたが23歳で戦死しました。
新島八重が晩年まで持っていたという遺品も展示されています。小さな鶴ヶ城の写真もありました。会津の無念を心に残していたのでしょう。

上層のほうに進みますと、戊辰戦争の時代を生きた会津の人々が紹介されています。戊辰戦で亡くなった人もいますが、明治になって新たな人生を生きて活躍した人もいます。
最上階に上りますと、四方が開けていて景色が見えます。(写真)

これで天守閣の展示は終わりましたので降りて行きます。
下の方まで来ますと、外から見た走り長屋に通じる通路があります。ガイドさんが言った通り、細長いお土産屋さんです。そこを進んでいきますと、大河ドラマ「八重の桜」で使われた衣装が展示されていました。さらに戊辰150年企画のVRシアターがあり、戊辰戦争の主要人物がアニメキャラみたいになって当時の会津を案内してくれます。突き当りは干飯櫓です。ここまで来たら出口です。
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