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2018年01月24日02:21

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農業が飢餓をもたらした 気候学

救荒植物という一群の植物があって
いざ飢饉の時などはそれをカロリー元として食する

穀物で言えば粟やヒエのようなものから
山菜の類
トチやドングリの類だ

トチなんかは昭和の時代くらいまでは
村や畑の隅に大径木があって
およそバブルの時代を境にほとんどが切り倒されて製材された
ナラやシイも同じくで
栗も多く残っていたものがそれ以前に鉄道の枕木や用材として切られた
救荒植物であるから村という共同体が切らせなかったものを
高度成長が一段落した時代に切り倒した
もう飢餓が遠い昔の話になったということもある
同時に村落共同体が崩壊したことの証でもある

これらの植物はかつてこの列島に住む人間の主食だった時代があり
縄文から鎌倉初期に至るまで
ごく普通に口にした栄養源だ

https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/seigyo/jomon.html

少し専門的なリンク先だけれども
正直なところ 本当に縄文時代に食されていた木の実ははっきりとはわかっていない
ある程度はわかるが
おれが今知りたいのは九州の縄文後期だ

ただ ある程度はっきりしているのは
奈良時代の初期まで
稲作はメインの食料を供給できる体制にはなっていない
比較的稲作に向いているのは京都から奈良にかけてから
滋賀岐阜の一部 愛知三重の一部
そんなところだ
日本列島で稲作に向いているのはそんなごく一部だと言える
あとは多かれ少なかれ火山灰地であり
木は生えるが水田には向いているとは言い難い
関東を中心に日本全国に分布する黒ボクなどでは
本格的に稲の収量が増えたのはリンが肥料として大量に使われる太平洋戦争後だ
今の我々が想像する田んぼが延々と続く田舎の光景は
比較的最近の光景だと言える

縄文弥生にも飢餓はあった
しかし 様々な栄養を分散して摂取していたこと
そして人口が少ないから それすら取れなくなれば移動できたこと
そういった要因で それ以降の時代よりも壊滅的な飢餓は少なかったと言われている
これは発掘された人骨などの研究によるものだが
はっきりとはわからない
しかし 世界的な農業史からしても大きくは外れてはいまい

ただ九州は多少置かれた環境が違い
土質が極端に悪い
これは現在も同じだ
原因は度重なる大規模な噴火で
おそらくは水稲伝来後も
ほんの少しの天候の変化で飢餓が起こり得る
おれは卑弥呼の邪馬台国は九州にあったと思っているので
人肉を食うほど荒れた飢餓が存在したという伝承からしても
さもありなんとは思う


そこで考えなきゃいけない話があって
本当にこの列島の古代人は
望んで稲作をやったのかどうかということだ
当時 まだまだ人間は少ない
十分に移動可能だ
ということは
特定の生業に偏らないという縄文の方針を堅持していれば
そうそう飢餓には陥らないという思想を圧し潰す圧力がなければ
水稲の稲作は普及しないのではないかということだ
ましてや 水稲栽培の普及は
それ自身が主食候補ではあるものの
一種のモノカルチャーであるとも言えるのではないか
当然 飢餓は頻々と起こる
適地ではないところで稲作をやるのだから
気候の影響は甚大だ
奈良時代から平安鎌倉の飢餓は
まさに人為的な飢餓であり
非常に長い農耕文化の過渡期であり
かろうじて人間が生きながらえ 子孫が残せたのは
縄文の思想が少なからず残って
モノカルチャーに反発していたからだという可能性もある

中世の「浄土真宗」を考えながら
網野先生の言うまつろわぬ自由民に想像が及ぶ時
いつも頭の中に引っかかっていたことがある
なんとなくその時代のカロリーがつじつまが合わないのだ
計算上の米・雑穀の2000calにも満たない平均摂取量では
なかなか人間は増えない
実際にはもっと少ない場面も多かったはずだ
稲作が順調にいっての試算に過ぎない
関東 東北 九州 出雲は今以て火山灰地だ
それらの土地である程度 水稲栽培が波に乗るのは河川管理の充実した江戸に入ってからで
現代のイメージになるのは先にも言ったように戦後だ

であれば
水稲栽培を力を以て強要しなければ
本当はそんなことなどしたくもない時代が延々と続いていたのを
歴史は見落としている可能性がある

稲作によって富が生まれ
支配者が発生し
それにより「クニ」ができたとする史観は
野生の植物を管理栽培していた縄文から
稲作による定住という「進歩」が生まれた弥生とその後の大和朝廷という
進歩史観はなにやら怪しくなる

縄文には思想は存在せずという先入観は
稲作文明を受け入れたという未開対文明という史観の延長戦にある
本当にそうなのか

誰ぞやが強制的に水稲栽培を縄文人に強いて
一万年以上遊んで暮らしてた縄文人を
水稲栽培という極度の労働集約産業に駆り立てねば
この国に米は定着する理由はなかったのではないか?

もしかしたら やっぱり縄文人は
誰ぞやに征服されたということになるのかもしれん
この辺りがわかるのはまだ百年以上はかかりそうやねw
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