ザインがそのままの現実
ゾルレンがそうあれかしとの理想
少し横道だがまあ 許してもらうとして
「何が一般意志か」のような話の中で
気をつけて峻別しなければならないのはザイン・ゾルレンの見分けだと思う
俳句や短歌でゾルレンが語られることはまずない
おしなべてザインだ
日本の現代詩もそうで
小説も ヨーロッパのようなゲーテみたいな教養小説なんてのは流行らなかったし
かくあるべしという主張が文芸に出ることはなかったに近い
「白いユリが咲いている」
と
「白いユリが美しい」
の対比は
上がザインで
下がゾルレンだ
「美しい」という言葉は そこから何が美しいのかという「真理への欲求」があるが
咲いてるだけだったら勝手に咲いてればいいw
勝手に咲いてる様子を書いて
その「咲いている」から寂寥感や「爽快感」を無数の日本語話者である他者に同じように伝達することが可能であれば
それが詩になる
「美しいユリが咲いている」は詩ではない
それは理想を啓蒙するものだ
そういった偏執的な美意識をもって
「かくあるべし」を排除していって
東先生の論が成り立つのかどうか検証してみるというのも面白いかもしれない
ローティーは 詩で繋がる共同体意識を提示しているのだから
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