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2017年08月28日11:26

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「撮影監督」に書いた原稿

撮影監督に書いた原稿を読みたいという意見をもらったので、ここにコピーします。
長いと思うので、読みたい方だけどうぞ。

 日本は君たちを見殺しにはしない
                      高坂圭

 本やCDで部屋が手狭になってきたので、断捨離を兼ねて整理していたらビデオテープが出てきた。ラベルを見ると、平成十年放送・テレビ宮崎制作「陽炎〜ある台湾植民地兵の叫び〜」とある。 
 僕が構成作家として参加させてもらった、初めてのドキュメンタリー番組だ。懐かしさもあり、早速デッキに入れて再生する。

 ノイズ混じりの画面に映し出されたのは、元台湾の植民地兵、林水木(みき)さん、当時七十二歳だ。
 林さんは関東大震災が起きた、大正十四年に台湾で生まれた。八歳の時に満州事変が起こり、以降日本統治下のもとで育った。
「大和魂を植え付けられた」と語る彼は、いわゆる皇民化教育を受け、太平洋戦争が始まった十六歳の時に日本軍に志願し、軍属として入隊。
「自分で志願するバカがどこにいるかとよく言われたけど、元気な男子がぶらぶらしているとあの頃は白い目で見られたんよね」

 入隊後、彼はボルネオ島へ捕虜監視員として赴く。
「捕虜は穀物つぶし、だから絶対に舐められるな」と上官に言われ、林さんはひとりで十五人ほどの捕虜を厳しく監視した。ときには平手打ちすることもあったという。ところがこの行為が大きな悲劇を生む。
 日本が無条件降伏を受け入れた昭和二十年、林さんの立場は一変。囚われの身となり、南の孤島で軍事裁判を受け、BC級戦犯として禁固刑十五年の判決を下される。
 十九歳の時だった。捕虜に対して行った平手打ちが理由となった。以降、七年間と七カ月、林さんは、強制労働を強いられながら、熱帯の過酷な環境の中で刑に服す。
「途中でマラリアになってね、半狂乱になったの自分でも覚えてるわ。というのも僕はね、すごく自暴自棄に陥ってたときだったのよ」
 そんな彼を救ったのは上官の一言だったという。
「林、そういう自暴自棄に陥るな。戦犯者ちゅうのはね、これは国のためにやったんだから。日本は君たちを見殺しにはしない。だから、辛抱してくれっちゅうてね」
 林さんは上官の言葉だけを信じて長い服役に耐えた。そして昭和二十八年、やっとの思いで日本に帰国したが、彼を待っていたのは国籍の違いによる差別だった。

 林さんがまだ服役していた昭和二十六年、日本はサンフランシスコ平和条約に調印。占領を解かれ、独立を認められた日本政府は、このとき植民地兵たちの日本国籍を一方的に剥奪していたのだ。
 その一方で裁判当時は日本人であったことを根拠に、政府は日本での服役を強要し、林さんは三年間巣鴨プリズンに入れられる。結局彼は、十九歳から三十歳までの十年十一カ月をBC級戦犯として服役。
 今さら台湾にも戻れず、釈放後必死になって働き、東京で小さな中華料理店を営む。子どもにも恵まれる。そして長男の日本で働きたいという言葉をきっかけに、林さんは帰化の申請を試みる。が、五年間許可は下りなかった。彼が再び日本国籍を手にしたのは、昭和五十七年、日中国交回復という政治的背景の中での承認だった。五十七歳の時だった。

 再び日本人となった林さんは、軍人恩給の資格があるのではないかと役所に教えられ申請を行う。しかし政府はこの申請を棄却。林さんが捕虜監視員という軍属、つまり軍に雇われた関係者に過ぎず、軍人ではなかったからというのが政府の回答だった。
日本のために戦い、日本の罪を背負って戦犯になった林さんに対し、それはあまりにも冷たい仕打ちだった。
 どうしても納得できない林さんは以来十五年もの間、何度も申請を試みるがいつも政府の答えはいつも同じ。棄却だった。慣れないワープロで文字を打ち、政府に五十数通の抗議文を送るようになったのもこの頃だ。

 やがて彼の怒りは世間を動かす。日本弁護士連合会が林さんの孤独な闘いを支援することが決定し、林さんは国を相手に裁判を起こす。台湾の元植民地兵が国家補償裁判を起こしたのは日本で初めてのことだった。それから二カ月後、林さんの裁判を示唆するある判決が下りる。朝鮮の元植民地兵の恩給請求に対し、裁判所は、補償するかどうかは、立法府である国会の裁量にゆだねられているとし、原告の控訴を棄却したのだ。
「とにかく評価されないのが一番悔しい。だから私も目には目を、歯には歯だよ。補償したくないのなら補償せんでもいい。青春返 してくれと。私、今七十二だけど青春謳歌したいわ。カモンハリアップって仕事してても後ろから叩かれてごらんなさい。そういうみじめな虫けらみたいなね、生活を送っていれば、こういう判決は出ないんですよ」
 国籍、罪に問われた時の身分、そして理不尽な法という壁に挑む林さんの人生を、僕は番組の最後にこう綴った。

 太平洋戦争で、植民地台湾に多くの犠牲を強要した日本。台湾植民地兵として二十一万人が出兵。そのうち三万三千人が戦士しています。敗戦から五十三年。元台湾植民地兵のBC級戦犯、一七三名のうち、すでに六十名の方が他界されています。しかし、林さんの闘いは今始まったばかりです。
国家に翻弄され、陽炎の逃げ水を追いかける。
 そんな揺らぎ続けた人生に、確かな終止符を打つために。

……あれからさらに十九年の時が経った。林さんも数年前に他界し、裁判も途絶えた。
「日本は君たちを見殺しにはしない」
 憲法改正が当たり前のように叫ばれ、共謀罪がいとも簡単に国会を通る今、僕は己に喝を入れるため、たやすく流されないため、この言葉を何度も自分に語りかけていこうと思う。

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