mixiユーザー(id:1940449)

2017年05月25日03:10

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憲法9条について

憲法9条の大本となる思想は
カントの「永久平和のために」という論文にある
ここでカントが述べていることは
ごく簡単に言えば
「永久平和はこない しかし永久平和を人々は道徳的に求めるべきである」
ということだ

この「べきである」という道徳のあり方は
基本的に一般に言われる道徳の意味とは異なり
定言命法というカント独自の倫理規定であり
仮言命法という「〜ならば〜すべし」という人間個々の都合による条件を排除した
いかなる場合も普遍的なものとして「すべし」というものだ

あの時ああしたらこうなったから こうするのが良い
というような子的な経験に基づくものではなく
絶対なのだw
それができようとできまいとw

と カントが考えたのは
道徳倫理を規定することが
こういう前提を置かなければ不可能だからに相違ない

まー 要するに
世界の永久平和などというものは
どうやって求めようかなどと策を練っても
それぞれの経験をもとに「自分に都合よく」考えていたのでは
先に進まないし
永久平和とは何であるかという規定にすら至らない
ただ 人間にとって無情な殺戮が認められない事態であることは共通している
ならば平和そのものを行動規範として絶対と認めるべし
ということだ

日本国憲法も理念的にカントの定言命法を取っている
そのカントの道徳を
最終的に正しいと担保するものは神だ
これは重要だ
日本人が思うカミは道徳を担保しない
同時にカントが想定する神もただ単にキリスト教のGODであるとは言い切れない
超越した仮想的存在としての必要性が「要請される」と述べているだけだからだ

「一国だけがそんな道徳的行動を格率(行動規範)として持ったとしてもなかなか難しいものがある だからこれは全世界が同時に持つべき格率である」
というような話もカントはしている
そもそも それは不可能だろうとけなされるに決まっていることも覚悟していると述べている

実現すべきものとしてひたすらそれが正しいという確信を持つには
それを正しいと認めてくれる存在が必要だ
と同時に
その確信が確実に間違っていることがわかっても
その経験則から来る予測を無視してしまえる覚悟がいる
ただ一人 神の前に立ち
堂々とその行為をつまびらかにする行為が想定されていなければならない

敵が攻めてきたら妻子も親兄弟も殺されてしまうかもしれない
防衛力を持つことでその危険性を抑えることができる
それはそうだろう
リアルな経験論だ
そしてその経験論の力に
左派リベラルは全く何の反論もできずに
思想として平和主義を構築できずにいる

しかし 戦後
この極端な平和主義を日本は保持し続けている
政治的に七転八倒しながら
様々な政治的欺瞞を経ながらも
この島の住人の多くは
この平和主義を捨てられずにいる

ただ一人 自分の神の前に立ち
自分の確信を表明できるか否か
それを現実に絶えず繰り返して想定し続ける立場の人間が
この国には一人いる
その人がいる限り
その実存主義的な生き様を
この国の人間は心の隅に置き続けている
終戦の日以来
それは続いている

この島の住人に
神の存在証明は必要ない
現実的存在として
神の前に立つ人間が象徴として想定され合意されているからだ
これが「日本国憲法一条」だ

その人が平和主義を取る限り
弱きものに手を差し伸べ続ける限り
被災地で膝をついて語りかけている限り
この奇跡的な国家の最高規範は
そう簡単に変更できない

では 国際状況にどう対処すべきかは如何にという問題はいかがすべきか
という問題については比較的簡単に答えもでる
善としての行為から外れることを自覚することだ
神の前に弁明できない行為を自覚する覚悟を持つことに他ならない
しかし どんなクソツボにハマり込もうと
視界の隅に彼を置き続けることだ

日本国憲法は人の世にふさわしい
奇跡的な構造を持った法だ
この奇跡の構造を据え置きながら
変更をかけるのは想像以上に法的な技術力が必要だ


迂闊なことはできんぞよw

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