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2017年05月12日23:25

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高取先生が生きてたら聞きたい

女性に対するケガレと
仏教の「女性は成仏できない」という話について

原始仏教において
基本的には女人禁制といった概念はなかったはずだ
誰もが悟りを開ける存在であるということで間違いはない
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-529.htm

元々 仏教は理詰めで
原理原則にそぐわない言葉はない
原理原則とは悟りに至る為には煩悩を断つ必要があるということで
それ以外にはないと考えて間違いはない

ではなにゆえに女人禁制が生まれたかと言えば
男は女を見るとちんこが立つという
ひじょーにわかりやすい煩悩の表現があるからだw
要は 女がいると修行できない
ちんこ立っちゃうw
釈迦当人も修行中 度々悪魔的な誘惑を受けたという事になっている
で 女人禁制だとw

世の諸兄
悲しい話ではないかw
ある哲学的結論に至るには
女の子見てちんこ立ててちゃダメなのだ
それだけならまだしも
おれら男は
女はケガレているから仏にはなれないのだという話まで捏造していたのだ
自分だけは輪廻の苦しみから逃れようとw
なんかこー カンタダを思い出すw

女人禁制は 男がちんこ立っちゃうから
ああ なさけないw

高取先生は「宗教以前」でそこらをもう少し踏み込んで解説している
原始神道の「忌み」は「斎み」であり
「斎み」は「斎い」であり「祝い」であるとして
出産に関するケガレは
新しい生命の誕生という祝い事で
そこに作用するカミの存在を迎え入れる為の斎いであったはずだと
それが仏教のちんこ立ててちゃダメ思想によって
なんかこー偶然に近い形で成立してしまったけがれなのだと結論した

まさに煩悩が煩悩を生み出し増殖するかごとき風景だw

ただ先生が生きてらっしゃったら聞きたいこともある
先生はここで言うところの原始神道を
かなり素朴なアニミズム的なものとしてとらえている
男女協力してカミを迎え入れ
新しい生命の誕生を言祝ぐ斎いを主張するけれども
縄文一万年は
そんな素朴に留まる時間的単位ではない気がする
原始神道にもおそらくは複雑怪奇な様式が存在して
様々なタブーとそれを祓う手段が混在し
そこには必ず「宗教以前」のそれ以前が存在したように思える
ただそれは文字に残っていないから推測の域を出ず 学問的には成立しないモノとなるだろうけれども

縄文人も ここから先は女は入っちゃダメとか
絶対言ってたと思うんだ おれはw
女がいるってだけで なんかこーちんこムズムズってのは都合が悪い場面もあったに違いないと思うしw

犬は嬉しいときしっぽを振る
人間は心を隠してこそ平安な共同生活が送れるにも関わらず
男だけはちんこムズムズさせるヘキがある
なんとかしたいt思わないはずはないw

再度 出張を命じられたヤマトタケルは
俺嫌われてんじゃないかとわあわあ泣いた
それを江戸期の儒学者は男らしくないと非難した
そこを本居先生は それこそ素直な心情の吐露という神道の心の美徳であり
それを非難するは曲がった唐心であると反論した
しかし流石の本居先生も
女を見る度にちんこ立ててる神々をそれやよしとするには勇気がいるだろう

まー だからなんだって話だけれどもw
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