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2017年02月02日00:24

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あの場所からあらためてよろしく (2)

僕と良子の関係は、卒業するまでずっとそんな感じだった。考えてみれば、そんなふうに日常的に遊んでいた相手は、良子しかいなかった気がする。他に楽しく話せる人間が居なかったわけじゃない。同性にも異性にも、そういう相手は何人かいた。だけど不思議と、誰も僕の日常の領域にまでは入りこんでこなかった。良子の存在があったことで、彼らは気を使っていたのかもしれない。良子の方もそんな感じだったのかもしれない。なにしろ僕らは、ひとたび大学の外に出ると、暇で暇で仕方がなかった。


卒業式の日、僕らはそれぞれの仲間内のパーティーのあとで、落ち合ってふたりだけのパーティーをした。いい加減ほろ酔いだった身体を冷ますように軽いカクテルをちびちび飲みながら、もう過去のことになってしまった大学生活について話しをした。あなた、いつ実家に帰るの?と良子は聞いた。来月中に、と僕は答えた。そうか、と良子は答えた。
「荷造り、手伝ってくれる?私も来月のうちに部屋を引き払うの。」
もちろん、と僕は答えた。帰り道で良子は、ねえ、お互いすんなり卒業しちゃったね、とそれまで見たことがない種類の笑顔で僕に話しかけた。そうだね、と僕は答えた。いま自分はどんな顔をしているのだろうと思いながら。


いろいろと実家の方でやらなければならないことが出来たらしく、良子は予定よりも一週間ほど早く部屋を引き払った。故郷に帰るその日、彼女はたくさんの荷物を抱えて僕の部屋を訪ねた。ごめんねいきなり、と照れ笑いしながら。
「居ないなら居ないでよかったんだけど。」
大丈夫、と僕は言った。実際僕にはもう部屋を引き払う日まですることは何もなかった。部屋に荷物なんてそれほどなかったし、大きなものはリサイクルショップにでも引き取ってもらうつもりだった。あるいは…一階の物置の入口にでもそっと置いておけばそれで大丈夫だろうと思っていた。
「帰る前にもう一度顔見ときたくてさ。」
じゃあコーヒーでもごちそうする、と僕は言って、コンロでふたり分の湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れた。小さなテーブルにことんと置くと、ありがとう、と彼女は礼を言った。ふたりともいつもより無口だった。開け放した窓から心地よい春風が吹き込んで、ポニーテールの彼女の髪を静かに揺らしていた。まるで年代物の振り子時計のように。しばらくの間僕らは黙ってコーヒーを飲んだ。そうするとそこで時間が止まって、もう少しふたりでいられるのではないかと僕は少しだけ考えた。たぶん彼女もそんなことを考えていたと思う。
「君は、いつ帰るの?」
ギリギリまで、と僕は答えた。彼女は、ふふふ、と笑って、「君らしい」と言った。僕は苦笑した。たわいないいつもの会話だった。だけどもう僕らは学生ではなかったし、引き継がなければならないそれぞれの仕事があった。だから、もしかしたらそれはもう、「いつもの会話」と呼ぶことも出来ないものかもしれなかった。良子はしばらく窓の外を見ていたが、ゆっくりと立ちあがってスカートを直した。
「もう行く。」
ん、と僕は言った。それから、JRで帰るのか、と聞いた。うん、と良子は答えた。
「でも、ここの駅でいいよ。この町の駅で。」
だけど、と僕は言おうとした、でも、彼女は首を横に振った。
「大丈夫。荷物は多いけど、バッグ以外は送ってもらうようにするから。」
そう、と僕は言った。じゃ、行こう。一緒に電車を待っててね、と良子は言った。僕は頷いた。


駅のホームのベンチに腰を下ろして、僕らは思い出話に花を咲かせた。
「知ってる?学年で親が工場を営んでるっていう生徒、私達だけだったんだよ?」
知らなかった、と僕は答えた。珍しがられるわけだ。
「君はどうしてそのことを知ったの?」
「事務の人が教えてくれたのよね、なんかの用事で行った時に。」
へえ、と僕は言った。それから空を見上げた。不思議なくらい穏やかな青空だった。彼女も空を見上げた。センチメンタルになり過ぎだ、と僕は思った。二度と会えないわけじゃないんだし。そりゃあ多少遠くなるけれど…そんなことを考えている間に遠くに良子の乗る列車が見えてきた。あーあ、と良子は言った。
「今日まで取っとけばよかったなぁ。」
「―なにを?」
「んふふ。ほら、荷物運んでくださる?そしたら教えてあげる。」
僕は彼女の荷物をホームの端まで運んだ。列車はすぐに滑り込んできた。ドアが開く。ありがとう、元気でね、と良子がにっこり笑う。
「待てよ、取っとくってなにを?」
良子はくそー、という顔をして、早口でこう言った。
「乗り遅れちゃった、ってやつ。」
そしてひらひらと片手を振って電車に乗り込んだ。たくさん荷物を抱えてるとは思えないくらいのスピードで座席を確保して、僕の方を見た。そして、声を出さずに、さよなら、と言った。そしてゆっくりと手を振った。僕もそうした。電車が走り出して、良子の顔が少し歪んだ。でも、持ち直した。ああ、しばらく会えないんだ、と、僕は急に寂しい気持ちになった。


それから僕も、幾人かの親しい連中と個別に別れを告げたあと、ササッと荷造りを済ませて故郷に帰った。そして本格的に家業を手伝いながら、時々良子と電話やメールでやり取りをした。バブル崩壊の波が田舎の方にまで広がり始めて、徐々に徐々にどこの町工場も苦しくなり始めた。早々に見切りをつけて工場をたたむ人も出始めた。なんせ、最盛期に比べてゼロがひとつ足りない所まで業績が落ち込んだのだ。僕の家の工場は、親父が開発した特殊な構造の部品をいくつか扱っていて、それの売り上げが落ちることがなかったので、どうにかやっていくことが出来た。だけどいつかは、なにか手を打たなくてはいけなくなるだろう、と僕は思った。親父にそれを言ったら、そうだな、と言ってそれきり黙っていた。時々は少々無理な注文でも受けて、親父と二人だけで夜中まで仕事をした。先への不安はあったけれど、僕はようやく自分の家で働くことに喜びを感じていた。



良子の方も忙しいようで、お互いメールの返信にタイムラグが生じ始めた。そしてそのうちに電話はなくなり、正月やらに思い出したようにメールを送りあうくらいの交信が二年ほど続いたある春の晩、不意に彼女からの着信があった。僕は最近近所に出来たコンビニに歩いて出掛けたところだった。こんな辺鄙なところにコンビニが出来たのは驚きだったが、それでも僕にはすごくありがたい出来事だった―と、コンビニの話は今は置いといて―もしもし、と良子は言った。そういやずいぶん久しぶりに彼女の声を聞いたな、と思いながら僕ももしもし、と言った。
「元気?」
「元気。クタクタだけどね。」
「そう。」
あれ?と僕は思った。そう、と言ったっきり、彼女が黙りこんでしまったのだ。かなりの時間僕は待ってみたが、これはなにか起こったのだなと判断して、自分から口を開いた。
「なにかあった?」
うん…と、言ったっきり、また沈黙。僕の横を一台の軽トラックが通り過ぎた。
「あ、いま外にいるの?」
「そう、こんな辺境にもコンビニが出来たんだ。毎日通ってる。」
くすくす、と良子は笑った。
「静かすぎるわよね、そっち。てっきり部屋にいるもんだと思ってたわ。」
珍しく車が通ったからね、と僕が言うと、良子はあはは、と明るい声で笑う。それから、ふーっ、と、長い息を吐いた。
「あたしの家、工場閉めることになったの。」
それは僕にとってもショックなニュースだった。一度も訊ねたことはなかったけれど、良子の話につきあううちに、僕もすっかり彼女の工場のことが好きになっていた。いつかは行ってみたいと思っていた。僕にとってそこは、もうちょっとしたテーマパークみたいなものになっていた。いつかは行ってみたいと、そう思っていた。



「去年母親が体調を崩してね、ほとんど工場に出られなくなって…あたしと父親で頑張ってたんだけど、もうそんなに数字も伸びなくてね…誰かがお母さんの面倒を見なくちゃいけないし…いい機会だからもう閉めるの。きっともう何年も前から、みんなやめ時を探してたのよ。あたしには隠してたけど。帰ってからずっと、以前とは違うことは判っていたの。」
それから良子はとうとう泣きだした。いままでずっと我慢していたんだろうな、と僕は思った。自分がいま彼女の隣に居ないことがとてももどかしかった。彼女は嗚咽しながら、電話の向こうで僕を呼んだ。
「なに?」
「泣きやむまで電話を切らないでいてくれる?」
「もちろん。」
「寒いのに、ごめんね。」
「大丈夫。」
それから良子はしばらくの間泣いて、ごめんなさい、ありがとうおやすみと言ってそそくさと電話を切った。そのあと僕はコンビニの店内で、店員が飛びあがるほどのくしゃみをして気まずい思いをした。



次に良子から電話があったのは半年後だった。母親が亡くなったということだった。工場は閉めて、なにもかも更地になった。そして土地は人手に渡った。僕は慰めようとしたが、彼女の声はどこか晴れ晴れとしていてそんな言葉を受け付けそうもなかった。
「なにもかも片付いたときに、お父さんが言ったの。今までありがとうなって。おまえが戻ってきてくれて、工場の為に一生懸命になってくれて嬉しかったって。でも、時々おまえがなにかを我慢してるみたいに見えてしかたなかったって。俺には母さんがいるから寂しくない。だからもしも行きたいところがあるのなら、俺に気を使わなくていいから行くといい。って。母さんだってほんとはそう思っていたはずだ、って。」
「うん。」
「だから私言ったの、私は凄くそこへ行きたいんだけど、あっちは私を迎えてくれるかどうか判らないの、って。」
僕はまるで関係ない話をするみたいに、家の工場の敷地の話をした。良子は一度、ん?と小さく言ったけどそのあとは黙って聞いていた。
「それで、いま親父とお袋と住んでいる母屋みたいな建物の他に、いまは使っていない平屋がひとつあるんだよ。」
僕はそこまでをすらすらと喋った。いつかそんなことを口にすることもあるんじゃないかって時々考えていたのだ。良子が息を飲んだのが僕には判った。僕は言葉を続けた。
「最初の掃除を手伝ってくれるなら、家賃なんかいらないよ。」
お世話になります、と静かな声で良子は言った。


なんだか不思議なことになったなという沈黙の後、じゃあさ、行けそうな日が決まったら連絡するから、あそこで待ち合わせしようよ、と良子が言った。それがどこのことなのかはすぐに判った。




その電話から三ヶ月が経って、良子は僕の家に来ることになった。僕は少し早く懐かしい町に着いて、ちょっとぶらぶらしてから、待ち合わせ場所に向かった。風は冷たくなり始めていたけれど、まだまだ陽射しは強く、長袖のシャツで充分なくらいだった。僕の家に着いたら良子は寒さに震えあがるだろうな、と考えると僕は可笑しくなった。携帯を開いて時間を確認した。もうすぐ約束の時間だった。すぐにあの線路の向こうから、懐かしい電車がゆっくりと滑り込むだろう。                                         



                                              【了】

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