mixiユーザー(id:1940449)

2015年08月30日01:56

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反知性主義

反知性主義とはなんなのか
まだ明確に定義されているとは言えない
でもまあ モノは試し
定義してみよう

一般に反知性主義的な歴史的事件と言えば
ポルポトの焚書であったり
毛沢東の文革であったり
ナチスの焚書もその一つか

あるいは アメリカの聖書主義からくる
非常に素朴な常識重視の態度であったりもするだろう

そんな中から言えるのは
そういった反知性主義的だといわれる様々な活動自体だけで反知性主義であるとは言いがたいということだ
例えば国家が衆愚政策をとったとしても
それがそのまま反知性主義な訳ではない

反知性主義とは
「反知性主義でもよい」と多くの大衆がそれを望み
それが正義となった時に現れるイズムこそが反知性主義である
と言えるだろう


ネットを見るに
多くの人々が政治参加をしている
自らのオピニオンを表明し 
認め合い あるいは批難し合い
している
街頭では 少数ではあるがデモが行われ
対立する意見ごとに
さしずめ阿波踊りの連のごとくだ

まさに大衆の政治参加であり
人は生まれながらに平等で
誰しも自らの意見を述べるに値する権利と能力が備わっているという事になっている

彼等に問うとしよう
あなたはどのような主義 思想
あるいは それを主張したどんな政治学者の説に同意しているのか
あるいは 誰がどの書物で書いた思想に準じているのか
おそらくは 質問者に対し呆然としながらも
「そんなことはいいんだ 経験上こういったことは反対した方がいいと知っているのだから」
そんなふうに答えは帰ってくるのではないか
「なにをそんなお固い事を言っているんだ
民主主義なんだから誰しも主義思想を主張するべきだろう」と

いや それどころか
「だって街に出て許してはならない政治の横暴に反旗を翻す事は正義じゃないか」
と怒りだすかもしれない

そうなんだよ
それが正義となった瞬間に
【反知性主義】というものは確実に産まれる

「なにもみんながみんな
専門家のように政治経済について知る必要はない
哲学書引っ張り回して講釈垂れる必要もないし
そんな頭でっかちは必要ない
そう 書を捨てて待ちへ出よだ
そんなややこしい事よりも まずは行動だ
少なくとも ネットで意見を書いたりしても
それが無責任であるという事にはならないばかりか
自ら意見を発する事こそ
今の政治に認められた我々の権利であるし
その事について誰にもとがめられる覚えなどない
何しろ自由な発言は
それそのものが「正義」だからだ」

たぶん これが「反知性主義」だ
我々自身が「反知性主義」であることによって「反知性主義」は正義なのだ
我々はもう この「反知性主義」のど真ん中で生きている

では 反知性主義と そうではなかった時代の境目は何処にあるのか
いつからそうなったのか
何をきっかけに変化したのか

おれは少なくともこの国ではネットが普及してからだろうと思っている
あたりまえすぎて つまらんけれどもw
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