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2015年04月29日01:40

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「大谷光瑞と大谷文庫」(1)

先の日記に書いた通り、大連図書館でもらった本に書いてあった「大谷光瑞と大谷文庫」を日本語に訳したので順次載せていきます。ところどころぎこちない文章になってるな…とは思いますが、「自然な日本語」に変換するのが翻訳の最も難しい所で…。

「大谷光瑞と大谷文庫」(大連図書館「大圖」2012年第一期より)

大連図書館の貴重書の書庫に入ると、きれいに並べて積み重ねられ、選び抜かれた逸材で仕上げられた樟の箱が目に入るだろう。大谷文庫の蔵書はこの特製の箱の中に静かに身を横たえている…。

二十世紀初頭。悲惨な日露戦争の終結後、日本は我が国の遼南地区を日本による統治の中心地とした。そして旅順は日本の上流社会の高官貴人が集まる土地となった。1915年8月のある日、木箱を積んだ二十台余りの馬車が広々とした旅順の新市街のある洋館の前にやって来た。この洋館は帝政ロシアの統治時代に建てられたヨーロッパ風の豪邸で、現在は修復されて個人の邸宅になっており「旅順大谷邸」と呼ばれている。その主人こそが大谷光瑞である。
これらのずっしりと重い木箱の中に何が入っているのだろうか。また大谷光瑞とはいかなる人物だろうか。

1876年12月27日、京都の大谷家で一人の男の子が産声を上げた。この子が本文の主人公である大谷光瑞である。浄土真宗本願寺派第二十一世宗主・明如上人(大谷光尊)の長男で、幼名を峻麿、十歳で得度し法名を鏡如とし、諱を光瑞という。大谷光瑞の勉学時代は仏典と漢籍が必修科目であり、そのため成人後の光瑞は漢文学をそらんじ、中国の歴史地理や風土気質に通暁し、とりわけ四書五経と中国の典籍に精通し、漢文を読むことにかけて日本語を読むよりも長けていたという。

徳川幕府から明治に至る時期、本願寺は一貫して明治維新の支持者であり、皇室と密接な関係を持ち、大谷光瑞の父親の大谷光尊は伯爵に叙せられた。有栖川宮熾仁親王が媒酌を買って出たことで、光瑞は公家の九条道孝公爵の三女・籌子(かずこ)をめとった。長年にわたって、本願寺と九条家は何度も婚姻関係を結んでおり、歴代の本願寺の門主は九条家の養子だったことも多い。大谷光瑞の同母弟大谷光明の夫人も九条家の娘、すなわち籌子の同母姉紝子(きぬこ)である。また大谷光瑞の同母妹武子もまた九条家に嫁ぎ、九条良致(よしむね)夫人となった。これらの家族の婚姻関係を軽視してはいけない。大正時代になると、大谷光瑞夫人籌子の妹は大正天皇の貞明皇后となり、そのため大谷家は名実相伴う皇室の姻戚となったのである。赫々たる名声を持つ家族の後ろ盾のもと、大谷光瑞の人生はまばゆい栄光に包まれていた。

1899年1月19日、大谷光瑞はフランス郵船蘭奥斯(ランオース?)号に乗り、神戸から上海へ出航した。これが大谷光瑞の最初の外遊で、その目的は、日本の仏教を海外に広めるためのアジア情勢の視察であった。当時、中国の文物を略奪するために、中央アジアへの探検活動がちょうど世界を風靡していたころで、中国で見聞きしたことはわずか24歳の大谷光瑞に壮大な志を目覚めさせた。1902年から1914年にかけて全て仏教徒からなる「大谷探検隊」を組織し、あるいは自ら隊を率いて、あるいは人を派遣して、前後三回にわたって中国西北部地域に深く入って探検調査を行った。その期間は合わせて5年11か月、行程は18000キロに及び、その足跡は中国新疆・内モンゴル・甘粛・青海・寧夏などの地域に及び、頗る豊かな「収穫」を得て大量の貴重な文物資料が日本に持ち出された。敦煌文書だけでも三千巻あまり日本に持ち出され、大谷光瑞はこれによって世に名を知られるようになった。

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