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2015年04月05日14:02

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ミーナ




色褪せ、草臥れた雑草の中から、あの子の可愛い手の平が少しだけ覗いていて事態はようやく動き始めた、おとなたちが騒ぎ、こどもたちが泣き、見つけられた子の両親が呼ばれた、検査の結果残酷な行為の末に殺されていたことが判った、子供の母親は泣き崩れそのまま気を失った、殺されたのはその地方に住む八歳の女の子で、名前をミーナといった、ミーナの葬儀にはたくさんの友達と学校のおとなたち、それから彼女の死をくいものにしようと目論んでいる新聞記者たちとテレビ局の記者たちが押し寄せた、もちろんカメラを抱えた連中は決して中に入ることが出来なかった、彼女の親族の有志たちが集まって大人しい用心棒のような役割を果たしていたのだ、彼女の母親はその葬儀に出席することが出来なかった、あの瞬間以来すっかりふせってしまったのだ…「おかあさんいま忙しいから、しばらく外で遊んでらっしゃい」それが母親がミーナと最後に交わした言葉だった、ミーナは文句も言わず、素直に…あそこでどうして例えば、「二階でひとりで遊んでらっしゃい」とか、そういうふうに言えなかったのだろうか?軋む脳味噌を横たえながら母親はずっとそんな風に考えていた、父親は気丈に振舞ってはいたがやはり傷ついていて、あの日から一度も食事を取っていなかった、非常にやつれ、非常に疲弊していたが、彼はまだそのことに気づいては居なかった、母親が最後に言った言葉のことで自分をひどく責めていることは判っていたがそれをどうしてなだめてやればよいのか判らずにいた、「おまえのせいじゃない」そういうのは簡単だったが、それはミーナが死んだことの代わりにはならないのだ、葬儀を取り仕切り、ミーナの小さな身体が墓の中に入り、すっかり土をかけられて固められてから、哀しい一群は別れ、父親はひとり欠けた家へと戻った、ミーナの墓の前で最後にひとりになったとき、このまま頭を撃ち抜けたらどんなにいいだろうと思ったが、ひとり残される母親のことを思うと実行することは出来なかった、それはかれにとって幸運なことであったが、彼にはなぜか不運であるように思えて仕方がなかった、正式な運命のもとで別れる命でさえ途方もない哀しみを伴うのに、こんな別れを受け入れることが出来るはずもなかった、そして彼は、妻のこと、ミーナの母親のことを思った、彼女はきっと自分よりもずっと辛い思いをしているだろう、と彼は思った、そのことを思うといっそう胸が絞めつけられた、なんとかしてやらねばならない、彼はそう心に決めた、俺が苦しんでいる場合ではない、と―いまはなにも言えなくても、そばに居てやればきっと彼女の心も癒えるはずだ、そして初めて、犯人への怒りに身体が震えた、警察で聞いた話は、とても正気で聞いてはいられないものだった、愛しいひとり娘がそんな目にあったなんて耐えられなかった、どれだけ泣き叫んだことだろう、どれだけ俺の名を呼び、妻の名を呼んだだろう、最後は首を絞められたのだ、息絶えるまでの長い間、ずっとずっと苦しんだことだろう、彼の心の中は憎しみと哀しみで一杯になって、神すら恨んだ、よくないことだとは思いつつも、それを止めることが出来なかった、この運命はあまりにも受け入れがたかった…


それから一週間が過ぎたが、妻はいっこうに良くならず、次第に食事も取らなくなっていった、医者は、ひどいことを言わなきゃならない、と言って、彼の妻が死ぬかもしれないことを告げた、衰弱が激しい、このままでは危ない、私に出来ることは栄養を入れることだけだ、だがそれがいまの彼女にどれだけためになっているかは判らない、彼はまた、いま立っているところよりもいっそう深い地獄へと落ちていった、あんたも決して大丈夫とは言えない、と医者は言った、明日からあんたの注射も用意しておくよ、と…その夜から彼は眠れなくなった、妻が起きている間はずっと彼女のベッドのそばに居て、なんでもない風を装って話しかけたりした、妻は返事を返すことが出来なかったが、時々愛想笑いを返した、彼が娘と自分のせいで苦しんでいることは彼女にも判っていた、だが、彼女の心にはもう生きる気力というものがなかった、自分がもう人間ではないような気さえしていた、このままミーナのあとを追うつもりだった、彼女が安らかに眠った振りをして、彼がベッドを離れると、朝が来るまでずっとすすり泣いていた、彼女は娘を失ってから二週間後に痩せ細って死んだ


三人居たはずの家に男はひとりになり、強烈な孤独が始まった、妻の葬儀のあと男の顔からは表情がなくなり、誰の言葉にも返事を返さなくなった、男はあまり眠らなくなった、一日のうちでたった一度の食事を夕刻に取って、それからずっと窓際のソファーに腰を下ろして、ライフルを磨いていた、時には分解して、綺麗に掃除をした、どうしてそんなことをしているのか判らなかった、でも、それをしてるとなにも考えないですんだ、哀しみも、怒りももうそこにはなかった、あるのは永遠に続くような喪失感だけだった、俺はどうして生きているんだろう、と男は考えた、俺をこの世に繋ぎとめる理由はもうとっくになくなったのに…男は仕事にも行かなくなった、若いころに懸命に働いたせいで、余生をのんびり過ごすくらいならなんとかなりそうなくらいの金があった、だが男は、そんなことの心配など少しもしていなかった、どうして俺は生きているんだろう?


それから数年が過ぎた、嵐がひどい夏の夜遅く、ひとりの旅人が男の家のドアをノックした、旅人はケンと名乗った、小柄な、みすぼらしい男で、雨に濡れて余計にみすぼらしかった、道に迷ってしまって、と、ケンは言った、男は久しく人と話して居なかったのでしばらく言葉を思い出せなかった、ケンのほうもまた、男の様子になにかおかしなものを感じていたが、ここを出てまた嵐のなかを歩くことなど出来ようもなかった、男はケンを家に招きいれた、風呂を沸かし、ケンを入れてやった、ケンは心から感謝します、と頭を下げて長いこと温まっていた、男はケンの荷物を乾かしてやろうと床に置いてあったナップサックを持ち上げた、そのとき、ショルダーのところについていたカンバッヂが外れて転がった、男はそれを拾い上げてもとどおりにしようとして雷に打たれたような衝撃を覚えた、ミーナのオーバーオールについていたものと同じだったからだ、それは彼が買い与えたものだった、いまではもう売っていないもののはずだった、もしも…これがそうなら……彼はカンバッヂを裏返した、うろたえて、たまたま取った行動だった、そこには、薄くかすれてはいたが、懐かしい文字で小さく名前が刻まれてあった、ミーナ、と、つたない文字で…そのとき、ケンが風呂を終えて出てきた、男が彼の荷物を見つめているので、少し変な顔をした、ああ、と男は言った、「乾かしてやろうとおもってね」ケンはほっとした様子で、そうですか、と答えた、男はケンに温かい飲物をすすめた、ケンは喜んでそれを飲んだ、「この嵐はこれからひどくなるよ」と男は言った、「毎年今頃に一度だけ来るんだ、我々は慣れっこだが、君のような旅行客が時々ひどい目に合うんだ」権は苦笑して、今年は僕だったわけですね、と言った、男は微笑んで、このあたりは初めてかね、と聞いた、そのときケンの顔に奇妙な影がよぎったのを男は見た、「初めてみたいなもんですね」と男は言った、「四、五年前に一度来たことがあるのですが、そのときはあまり時間がなくて…」男は数度頷いて、静かに聞いた、「そのときは、仕事か何かで来たのかね?」ケンの顔は少し色をなくした、そして、ええまあ、とだけ言ってカップを掴んで、飲んだ―もう口を開けないために、そうしたように見えた、「疲れただろう、ここで待っていてくれ、君の寝床を用意してくるよ」男はそう言って二階へと上がった、ミーナの部屋を使うつもりだった、「すみません、ありがとう」階下でケンがそう言うのが聞こえた


男に部屋に案内されたケンは、壁にかけてあるオーバーオールと、その胸のポケットのところについてあるカンバッヂを見て真っ青になったが、男は気づかないふりをした、ここは娘の部屋でね、と男は何気ない調子で言った、「ベッドは少し小さいが、状態はいい…あまり使われることがなかったからね」ぐっすり眠れるだろう、という男の言葉に、ケンは青ざめながら頷いた、すぐにでも眠るといいよ、と男は微笑みながら言って、ケンの肩をぽんぽんと叩いた、ケンは声もなくこくこくと頷くばかりだった


夜明け近く、男はライフルを手にミーナの部屋に向かった、ケンが気づかないことは判っていた、飲物には妻が最後に使っていた睡眠薬が残っていたから―ケンがそうであることを、男は確信した、それは疑いようがなかった、もし違っていても、どうでもいいと思った、俺がここまで死人のように生きてきたのには、きちんとした理由があったのだ―ケンはいびきをかいて眠っていた、男はその鼻筋あたりにくっつきそうなほどに銃口を寄せて、引鉄を引いた、ケンの頭は枕の上で下顎のみになった…男はしばらくケンの様子を見つめていたが、やがて部屋の隅に腰を下ろすと、銃口を口にくわえ、引鉄を引いた―


やがて数日後に嵐が去り、男の家の異変に最初に気づいたのは郵便配達の男だった、呼び鈴を押しても出てこないことをおかしいと思い(というのも、男はほぼ外に出ることはなく、彼がベルを鳴らせばほとんどすぐに出てきたからだ)、周囲をうろついてみると、二階の窓のところに異常なほどの数の虫が飛んでいるのが見えた、すぐにとってかえして警察に駆け込み、巡査が様子を見に入ると、二階のその部屋で死んでいる二人の男を見つけた、部屋の隅で死んでいるのはその家の男に違いなかったが、ベッドで寝ている下顎だけの男はまったく誰なのか判らなかった、すぐに応援が呼ばれ、家中の捜索が始まった、キッチンのハンガーにかけられていた荷物から、ケンの書いたものが出てきた、数年前にこの街で少女を殺した、とその手紙には記されていた、本当に後悔した、あの時はどうかしていた、自分を抑えることが出来なかった、少女に詫びるためにこの街に来た、と、手紙には記されてあった、ほかにもいろいろと書かれていたが、それはおそらくのちに遺書のようなものになるために書かれたものだった―それを読んだひとりの刑事は、ミーナの事件のことを知っていた、「なるほどね」と彼は言った、「ケンとやらは、最短距離でこの街での用事を済ませたわけだ」だが、と刑事は声に出すことなく続けた、「ケンはここに来るべきではなかった、父親に、こんなことをさせるべきじゃなかった」




俺は彼には、すべてが昔話になるまで生きていて欲しかった、と。




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