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2013年11月08日21:18

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彼女を堕とせ 蜘蛛のように(第5章)

 俺の焦りを女は知っている。 

 だが俺も女がこうして帰らせたくはないことには気づいている。 当然だ。 わざわざ奇襲するように登場しておいて何の話もせずにただ帰すはずが無い……互いに手綱を握ろうとしているがゆえに俺達は席を立つこともせず、口だけで虚しく噓を言い合ってただただ愚かに時間を浪費している。

 我慢比べにも、チキンレースにも似た馬鹿らしい意地の張り合いを繰り返している自分達の愚鈍さを笑うことも出来ずに二人は無表情でにらみ合っている。
 
 このまま無意味な消耗を続けあうのか? と俺がゲンナリしたところで店内にメロディーが響き渡る。 少し前に流行った歌のメロディーだ。 優香がその歌が好きで口ずさんでいたのを思い出す。

 そのメロディーは目の前に居る女から流れてきていて反応するように彼女がポケットの中から携帯を取り出す。

 どうやら電話かメールが届いたようだ。 差出人の名前を確認したところで女がニヤリと小奇麗な顔を歪ませて笑う。

 美しいのにすごく嫌な顔だ。 素直にそう思ってしまう。 

「ほら…メールが届いたわ」

 女が携帯の画面をこちらに向ける。 青白く美しく光るその画面の差出人には瀬能優香の文字があった。

 一瞬動きが止まり、画面を凝視しようとする俺にまるで幼児を教える先生のように携帯をこちら側から読みやすいように置いて、その白く細い指先でメールの文面をなぞる。

 小さい液晶画面には決して多くは無い文章が羅列されていたが俺には読めなかった。

否、内容を理解することが出来なかったのだ。

 ショックのあまりに脳が機能停止を起こしてしまい、文字は読めるが文章を理解するという能力がすっぽり抜け落ちてしまっていた。 だが文書の合間に存在する間や句読点や特徴によりそれがまぎれもなく優香の文章だということは理解できた……したくはないが悲しいほどに判ってしまったのだ。

「彼女……可愛らしい人ね、あなたの為に無理して今日は東田君と二人でお話するんだものね……まだまだ他人が恐ろしくてしょうがないのにね……いくら貴方が言ったことだからってね」

 勝ち誇るように、嘲笑うように携帯をポケットに戻しながら女は言う。

 確かに今日、俺は二人の会話を盗み聞きするためにあえて優香を東田と二人っきりで会わせた。 ふるふると救いを求めるように震える手を優しく握り、誠実な瞳でまっすぐに優香を見据え、俺は彼女に言ったのだ。

『いつまでもこのままではいけない、俺以外にも話せる人間を増やすべきだよ』

 噓だった……優香が俺以外に心許せる人間を作らせるつもりなんてない。

『大丈夫、用事を済ませたらすぐに行くよ、そしてどうしても無理なら電話してくれればいい……同じくすぐに君の元へ向かうよ』

 これも噓だ。 彼女がいくら動揺し、救いを求めようが、俺はそのことごとくを黙殺し、決して東田と対峙する優香の元へと向かうことは無い。 大丈夫、後で彼女には、

『ゴメン、気づかなかったよ……本当にゴメン』の一言で事足りるのだから。

 それほどまでに優香を冷酷に自分勝手に追い詰めて立てた計画は成功するどころか余計な不安要素まで見つけてしまうほどの大失敗だった。

 おそらくは優香にとって非情な覚悟を持って挑んだであろうこの計画の真意は達成されず大失敗となってしまっているが、そんなことは問題ではなく、今現在、俺の前に座っているこの女がどうしてそのことを知っているかだ。 まあもちろん理由は、

「彼女から直接聞いたのよ」

 予想通りの答えだった。 そしてその答えはある一つの失敗を表している。

 それは俺一人だけが彼女にとって唯一の存在であろうという目標が明確に否定されたということだ。

 つまり瀬能優香には近藤恭介という人間以外にも相談出来る者がいるという冷酷な事実が証明されている。

 俺は静かに天井を見上げる。 視界は天井に備え付けられている必要以上に明るくする照明によってまぶしいほどに白く塗りつぶされていた。

 俺は優香に裏切られた、あるいは騙されていた……?

 だが怒りは沸いてこない……当然だ、最初に騙したのは、嵌めたのは俺自身なのだから、ただ…そう…ただ俺が彼女を上手く騙しきることができていなかったという事実に俺は打ちひしがれているのだった。

 全くこれだから俺って言う人間は……。

 自分の無能さと、先ほどまで自分の計画が完璧に進んでいると思っていた愚かさに少しだけ泣きたくもなるが、今はそれをぐっと堪え、視線を戻しまっすぐに女を見る。

 女はいつの間にかあの嫌な笑いを収めて、今度はやや上品と言ってもまあ差し障り無い程度の笑みをして俺を見ている。

「あらあら、ショックだった?でも女の子は大抵複数の顔を持っているものだから気にしない方がいいわ。大丈夫よ、一番好きなのは貴方だと思うから」

 遠まわしな嫌味に顔がこわばる。

 この女の言ったことはすべてが俺に対するあてつけであり、それを理解して物分りの良いような言い方をする根性のねじれがすがすがしいまでに見えた。 

 そう俺はショックを受けている。 だが優香が俺に見せるとは違う顔を持っていたことでも、一番好きなのはという言葉から二番手が存在するという、唯一の理解者であるのは俺だけという目的も、はっきりいって問題ではない。 先ほども言ったが俺が上手く優香をコントロールできていないということがショックだったのだ。

 それに比べれば、俺以外に連絡を取っていることや隠し事をされていることなど問題なんかじゃない。

「それで嫌味と驚かせるためだけで来たのかい?」

 何とか平静を取り戻して嫌味にもなっていない嫌味を言ってみたが、当然それは

「あらそれは心外だわ、驚かせるのはこれからなのよ」

 ニッコリとまだこれが序の口だと言うことを宣言した。

「……それはそれは、次はどんなことで驚かせてくれるんだい?優香が実はレズだったとかかな?あるいは実は生き別れの双子と摩り替わっていただったりして」

 我ながら馬鹿らしいとは思うが、目の前に居る女にはそれすらありえてしまうと思うほどの妙な説得力があった。 女は一度子供を見る母親のように目を細め、一口コーヒーを啜る。

「それはお楽しみよ……でも貴方ならきっと乗り越えられると思うわ」

 取り繕うようで酷く社交辞令じみた言い方の裏には底意地の悪い反対の意味が見て取れる。  

「まあ乗り越えられないときは俺にとっては死を意味するからね」

 女が一瞬きょとんとした顔になる。

「乗り越えるさ、乗り越えて見せるよ……だが忘れるな、あんたは俺から見れば靴の底に張り付いたガム、あるいは夏の雨戸の隙間から入り込んだ飛虫みたいなもんだ。 調子に乗って入り込んでうっかり踏み潰されないか、もしくは蜘蛛の巣にかかって食われないように気をつけな、俺にとっては一生をかける存在なのさ…優香は」

 ニコニコと悪意の無い顔で悪意そのものを固めたような言葉を吐く。

 女は俺の言葉を同じく笑顔で聴きながら、片方の口角を上げ、

「それは凄いわね、凄い楽しみよ…ええ、凄い楽しみだわ。まるで新刊の本を手に取った時のような気持になるわ、お願いだから期待をはずさないでね……せいぜい楽しませてもらうわ貴方の一生をかける価値のある存在の親友として」

 挑発するような女の前で、残ったコーヒーを一気に、でも下品にならない程度に飲み干す。 すでに戦いは始まっているんだ。 この女の前では僅かなミスも気の緩みもすることはしない。

 カチャっと静かにカップを皿に置いて俺は立ち上がる。 伝票を手にして。

「私が払っておくわ、いきなり現れたんで驚いたでしょ?その詫び料よ」

 歩き始めようとする俺の背中に振り向かずに声をかけ、右手だけは伸ばして伝票を受け取ろうとする仕草をしている。 

「女の子に払わせるわけには行かないだろ?ましてや恋人の親友にね」

 そう言ってレジへと歩き出す。

 後ろで空気を漏らすような、噴出すような音がしたが気のせいだろう。

 そのまま俺は勘定を済ませて一度も振り向くことなく店の外へと出た。 すでに夜から深夜へと変わり始めた屋外は、クーラーの効いた店内から出ても温度の変化は無く、夏特有の風の匂いだけがしていた。

 その中をゆっくりと駐車場内を横断し、駅へと向かう。 そこでこの服を着替えて家に帰らないと……優香にはそのときにでも電話しよう。 今日はメールでは気が済みそうにないから色々な話をしたい。 でも謎の親友のことは聞かない。 いずれ優香からこちらに話すか、親友自体が消えることになるだろう。 俺は決して優香を責めない。

 上手に騙すためにそのフリをすることはあるが、それだけのことだ。

 そう俺は優香を一生騙し続けなければいけないのだ。 

 だからこそ負けられない。 だからこそ命を賭けられる。 だからこそあの女の存在は許せない。 いずれ正体を突き止めて後悔させてやる。 この俺の邪魔をしたことを。

そして俺以外に優香の支えに成ろうとしたことを……



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