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2010年07月05日22:19

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 忘れたくても忘れられない辛い過去が、誰にでも一つや二つはあるだろう。

 だが、いつしかそんな過去とも折り合いをつけ、傷が癒えるころにはまた明日に向かって歩き出していく。人間とはそういうものだ。

 だけど、本当の意味で恐ろしい、自我が崩壊してしまうほどのトラウマを背負った場合は別だ。想像を絶する悪夢を体験してしまった人間は、その体験にまつわる記憶をキレイさっぱり忘れて無かったことにしてしまうらしい。本能的に備わった自己防衛の一種なのだろう。人間として正常に生きていくための。

 ある晩のできごと。
 寝息を立てて眠っている恋人の顔を眺めていたとき、僕はふと忘れていたはずの忌まわしい記憶を思い出してしまった。なぜこのタイミングなのか、かいもく見当がつかない。
 とにかく、一光の雷鳴が暗闇から真実を曝け出すように、文字通り、一瞬のうちにすべてを思い出してしまったのだ。破れた記憶の隙間からは、黒くただれた液体がドロドロと噴き出していた。

 当時の僕は、自らの行いの後始末に奔走していた。行動の正当性について議論する余地なんてなかった。省みる余裕が無かったからだ。周囲のいざこざが収束したあとも、しばらくは束の間の安心感に浸っていられた。
 ところが、その後に僕を襲った苦痛は、まさに想像を絶するものだった。

 故人への罪悪感。良心の呵責。事後発覚への不安。吹き荒れる後悔の嵐…。
 自責の念に駆られた僕は、誰かに真相を打ち明けてしまおうかと、何度も迷った。結局はその勇気さえ持てなかったわけだが、結果、眠れない日々を過ごしていた。
 やがて僕は悟る。この秘密を背負っている限り、もはや普通の人生を送ることはできないのだと…。
 可能であれば、すべてを水に流してしまいたい。また一からやり直すためのチャンスがほしい。祈りをささげるような気持ちで、日夜、神に向かって懺悔を繰り返す毎日だった。


 そう、僕は人を殺めてしまったのだ。それも無二の親友だった男を。

 現場にはありとあらゆる負の感情が渦巻いていた。とりわけハッキリと自覚しているのが、今もこの手に残る生々しい暴力の感触と、あいつの断末魔の叫び。この二つだけは、今でも忘れ難く脳裏にインプットされている。

 なぜあんなことをしてしまったのか…。おぼろげな記憶を頼りに、少しずつ動機と背景が浮かび上がってくる。

 ひとことで言えば、僕はあいつが邪魔だったんだと思う。
 当時の僕は、とにかく嫉妬に駆られていた。いっそ、あいつを殺してしまえばすべてが丸く収まるような気がした。当時の僕は若かったがゆえに、常軌を逸した行動についても正当化できるだけの盲信さと、それを実行に移すだけの無鉄砲さを併せ持っていた。将来への(間違った)ビジョンが明確にあり、それを叶えるためなら一切の躊躇も必要としなかった。
 
 言うまでもなく、ひどく短絡的な思考だった。浅薄で、思慮に欠けた。なによりも猟奇的だったし、完璧に狂っていた。
 もちろん、大人になった今はいくらだって後悔することはできるが、当時の僕にそれが分かっていたなら苦労はない。

 すべてが白日の元に晒された夜。つまり、昨晩の夜。
 僕の胸元にゆっくりと息を吹きかけているこの弱々しい生き物が、ひどく異質なものに思えてきた。まるでなにかの拍子に現代に迷い込んでしまった不思議の国のアリスのように、そこに横たわっている物体はなにかしら現実味を欠いてるように見えた。彼女の存在感そのものが、著しく現実と乖離していた。

 「おい、おまえ。ここにいるのは殺人鬼なんだぜ。お前も殺してしまうかもしれないんだぜ。」
 それは暗闇から絞り出した心の声だった。そのとき、狂気の沙汰とも思える自己疑心にまみれ、もはや自分が自分でいることさえ自信を持てなくなってきた。
 もしも、こんな僕を信頼しきっている哀れアリスに真相を話してしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。一瞬、そんな誘惑が頭をもたげた。
 まず間違いなく、彼女は許してくれないだろう。そもそもこんなの信じないだろうし、仮に信じたとしても、心が壊れてしまうに違いない。

 次に、真相を知った彼女の顔が次第に歪んでいくことを想像してみた。僕は胃から酸っぱい液が逆流してくるのを感じずにはいられなかった。その結末だけは、およそ想像し得る限り、あってはならない最悪の事態であるように思えた。

 「彼女を巻き込むべきではない。」
 ふと、天啓に導かれるように、僕はその声を聞いた。それは直感というより僕に残された唯一の贖罪であるかのように思えた。少なくともそう理解する他なかった。

 次に彼女が目を覚ましたとき、僕はもうこの世にはいないだろう。
そこにいる僕。そいつは僕ではない。実際のところ、そいつは彼女が知るところの僕とはまったく別の生き物なのだ。ソイツハチガウ。僕はそいつじゃない。
 たしかにあの瞬間、一光の雷鳴が僕のすべてを損なってしまった。忘れていた記憶を蘇らせ、虚像の一切を引っぺがし、本来の殺人鬼の姿に戻してしまった。

 すべては終わってしまったことだ。僕をとりまくひとつの世界が終わり、そして僕を残して世界はふたたび始まった。何事もなかったように。…そう、それだけのこと。

 この秘密を墓場まで持っていこうと、僕は神に誓った。


 …というを見た。
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