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2009年08月20日23:05

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中国東北・ハルピン1・モデルンホテル

列車でハルピン駅に着いたらホテルまでタクシーです。ホテルは中央大街のど真ん中の老舗ホテル、モデルン・ホテルです。ロシア・アールヌーボー様式のクラシックホテルで、最初ガイドブックを見たときはとても私が泊まれるようなホテルではないと思いました。それでいろいろハルピンのホテルを探しましたがどうも決まりません。そうしたらネットで探すうちに安いプランが見つかりました。やっぱり初志貫徹。モデルン・ホテルに泊まることにしました。
タクシーがホテルの玄関に着いたらどうも「中央大街」っぽくありません。建物はそれらしいんですが。チェックイン後に出かけてからわかりましたが、中央大街に面した正面はホテルの入り口ではなくなっていたのです。ホテルの入り口は中央大街の裏側の通りに面していました。これは想像ですが、中央大街は歩行者天国なので、車を着けることができないから車が通れる道に面して正面入り口を作ったのではないかと。

さてチェックインをして通された部屋は…!!!でした。なんとも超現代的なシャープなデザインの、ホテルとは思えない部屋。まあ、こういうタイプの現代デザインも好きですけれど、せっかくモデルン・ホテルを予約したのに。…と悩んでいたら、浴室がシャワーのみでバスタブがないことに気が付きました。それでバスタブのある部屋に変えてもらうよう頼んでみました。そうしたら同じ階のずっと奥の部屋に通されました。ここは普通の部屋でした。クラシカルな雰囲気はありませんが、とりあえず普通のホテルの部屋。しかし窓側の壁が屋根裏部屋のように途中から斜めになっています。そして窓がその斜めの高いところについていて、外からは全く中が見えないようになっています。
後でガイドブックを見直してわかったのですが、このモダン部屋のある4階部分は増築だということです。増築して思い切って最新デザインを取り入れたようです。…わかってたらそれより下の階にしてもらうんだった…と思っても、一度部屋を変えてもらったし、荷物も広げてしまったのであきらめました。
部屋も決まったことですし、まだまだ明るい時間ですから中央大街を散策することにしました。

さて、「ハルピン」の語源は満州語だそうです。つまり満洲人がもともと住んでいた地域に入るわけです。19世紀始めに中国人の兄弟がやってきて酒場を開き、だんだんにぎやかな街になって行きました。19世紀末になるとロシア人がやってきます。南下をもくろむロシアはたびたび清朝と衝突し、何度か国境策定の条約を結びます。やがてロシアはシベリア鉄道を東へ伸ばしてハバロフスクまで到達し、そこから南下してウラジオストクまでまっすぐ降りていきました。しかしハバロフスク経由は遠回りです。ウラジオストクからまっすぐシベリア鉄道へつなげる鉄道があれば便利です。それには清朝の領土を突っ切らなくてはなりません。そこで清朝にせまって鉄道敷設権を手に入れました。ついでに「鉄道付属地」としてその周辺の土地の開発権も手に入れました。これが「東清鉄道」または「中東鉄道」です。この鉄道の要となる街がハルピンだったのです。

まず駅を作るために物資を松花江を使って運びました。松花江はハルピンの北部を流れる大きな河です。松花江から駅につながる通りに、労働者として借り出された中国人が住むようになりました。そのためこの通りはロシア語で「中国人の街」を意味する「キタイスカヤ」と呼ばれました。しかしこの通りはハルピンのメイン・ストリートとなって、ロシア人をはじめヨーロッパやアメリカから西洋人がどんどん入ってくるようになり、西洋建築を建てるようになりました。そして1924年に花崗岩の敷石で舗装したきれいな街に改装し、1928年には「中央大街」と改名されました。ここには外国の商店、ホテル、レストラン、カフェ、映画館が立ち並び、ハルピンは「東洋の小パリ」と言われるようになりました。「パリの流行は二週間にしてハルピンに飛ぶ」と言われたそうです。

この中央大街の中でも由緒あるホテルとして有名なのがモデルン・ホテルなのです。
アール・ヌーヴォー様式で建てられていますが、ロシアのハルピン開発は19世紀末に始まりそのころヨーロッパで流行したのがアール・ヌーヴォーです。アール・ヌーヴォーの流行はヨーロッパでは20世紀に入ると衰えてきますが、ロシアでは…というか、極東のハルピンではいつまでも「最新流行」の様式として使われ続けるのです。ですからハルピンには至る所にアール・ヌーヴォー建築が残っています。
モデルン・ホテルは1913年に完成しました。ハルピンきっての高級ホテルとして著名人が多く泊まったそうです。ロビーにはシャリアピンやエドガー・スノーの写真が展示されています。溥儀も宋慶齢も泊まったそうです。リットン調査団もここに泊まり、日本の警察が調査団の動向を探るためにホテルの職員に成りすましたスパイを送り込んだとか…。
そして昔の調度品も展示されています。古風な扇風機、カトラリーセット、コーヒー沸かしなど…。部屋は現代的ですが、ロビーを通るたびにこういったものをながめてうっとりしました。

さて、中央大街に出ますと、本当に西洋建築が両側にずらーっと並んでいます。人通りが多くてにぎやかです。ここに立った途端にこの街が気に入ってしまいました。そして思いました。「4泊では足りないかも…」。でも中央大街を毎日通って、毎日モデルン・ホテルに「帰って」来ることができるのです。それを思うと本当にモデルン・ホテルを予約できてよかった、ここに来てよかった、という気持ちが湧き上がってきました。

まずホテルの斜め向かいに書店がありましたので、ハルピンの地図を探しました。これからハルピン歩き倒しをしますので地図は必需品。しかし店内を見回しますと、ここでもどうも「ご当地」ものの本は見当たりません。とりあえず地図だけ購入して散策に出ました。
街を歩くと両側に立ち並ぶ西洋建築に舞い上がりっぱなしです。新しく塗りなおしたようなピカピカしたものや派手な看板がついているものも多いですけれど、建物それぞれにプレートがついていて説明が書いてあります。建築年、建築様式、元の名前など。それを見ると本当に20世紀前半のものばかりです。
中央大街は北の方が松花江に続いています。そちらの方へ歩いていきました。そうしたら突き当たりの大通りは通行止めになっていて、向こうへ行くためには地下道を通らなくてはなりません。松花江見物は翌日にして、引き返すことにしました。そうしたら突き当たりのそばに大きな電気店が見えました。ふと、電気店なら電池が切れた携帯に充電することができるかな、と思いました。このときは電池が切れたので持っていませんでしたけど。
中央大街の建物は色々なお店になっています。モデルン・ホテル以外のホテルもあります。特におみやげ物屋さんがあちこちにありますが、どれもみなロシア土産ばかり。入ってみますとまずマトリョーシカがずらーっと並んでいます。ロシア語のラベルのチョコレート、ロシアの時計、キャビアらしきもの、装飾品、毛皮など、など。キラキラに飾られたイースターエッグもありました。

そうして中央大街を散策していたら、だんだん暗くなってきました。ホテルの方まで戻ってきますと、正面のバルコニーで女性がヴァイオリンを演奏していました。バルコニーには「モデルンの夜 バルコニーコンサート」の文字が取り付けられていて、たくさんの人が見物しています。他にも中央大街を横切る通りではストリート・ミュージシャンが演奏しています。また、ホテルの横の道は両側ともかなり広いですがそこにはテントを張ったビヤガーデンがしつらえれられています。屋台も出ています。人が多くて本当ににぎやかです。
さらに、モデルン・ホテルの片隅にはアイスクリームのお店があります。かなり有名なお店のようです。中ではカップアイスが食べられ、外では棒アイスを売っています。これに人が群がって飛ぶように売れていきます。よく見ますと、アイスをなめながら歩いている人が多いです。後日両方食べましたが、カップアイスは柔らかめのトロリとした食感で、棒アイスともども濃厚なバニラアイスで、どちらもとってもおいしかったです。こればかりは持って帰れないのが残念でなりません。このアイスクリームはハルピンの名物らしく、ハルピンの街ではあちこちの路上でアイスを売っています。単に「アイスクリーム!」と叫んで売っている人もいれば、「モデルン・アイス!」と叫んでいる人もいます。でも本当にモデルン・アイスかどうかはわかりません。さすが夏の暑い盛りだから…と思っていたら、ハルピンの人は真冬でもアイスを食べるそうです。

ホテルに戻っても、窓からビアホールの喧騒が聞こえてきます。向かいの建物のネオンが光っているのも見えます。これからハルピンで過ごす日々のことを思ってワクワクした気持ちが盛り上がりながら最初の夜は更けていきました。

「フォト」にモデルン・ホテルの写真を片っ端から上げておきました。
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