第15章 二つの闇
よろめきながら立ち上がったバドルの耳に、ラダンの放心したような声が聞こえた。
「……逃げた、のか?」
振り向いた少年の目が、立ち上がったものの信じられぬ思いを隠せぬラダンの顔を、同じような表情を浮かべ立ち上がってくる男たちを捉えた。自分も同じような顔をしていることを、バドルもまた激情の爆発のあとの虚脱感に捕われたまま他人事のように感じていた。だが、
「闇姫を追い払った……」
「凄え……」
「ゆ、勇者だ……」
呻くようなその声にバドルは怯えを聞き取った。そして少年は悟った。彼らの目には自分が化け物じみた存在に映ってしまっていることを。振り払えぬ虚脱感の中、バドルもまた呻いた。
「……なんだよ。そんな目で見るなよ。あいつは、あいつは勝手に逃げたんじゃないか……」
答えは返ってこなかった。だが彼らの顔に浮かぶ表情が全てを語っていた。自分の居場所はもう村の中にはないと。この沼地の難破船のようなあばらやで、自分は闇姫の潜む闇の森に向き合う防人として独り過ごす定めに置かれたのだと。
もはやなにをいう気力もなくしたバドルを残し、ラダンたちはそそくさと逃げ帰っていった。バドルには知るすべがなかった。自分を襲うこの絶望的な孤立を、瀕死の自分を置いて去ってゆく彼らを見送るしかなかった数日前のミランもまた感じていたのだということを。
なぜか闇姫はもう来ないような気がした。確かなのは恐ろしい予感のみだった。これからも夜ごとの悪夢との凄惨な戦いだけは続くのだと。白き青年の支えが失われたいま、このがらんとしたあばらやの中たった一人で立ち向かうしかないのだと。
そしてあばらやが荒廃してゆくように、自分の心がじわじわと狂気に蝕まれてゆく無残な確信が少年を脅かした。
恐慌に陥る寸前、必死にあがく理性がなにかを掴んだ。それは疑問だった。二人の吸血鬼が残した疑問だった。
少女はなぜ自分を逃がしたのか。
そして、闇姫はなぜ逃げたのか。
弓矢が効いた手応えはなかった。だからそれが原因だとは思えなかった。なのにあの妖女たちは、そろって不可解としかいえぬ奇妙な行動を見せたのだった。
バドルの勘が告げた。そこにはなにか秘密があると。武器では決して傷つけられぬ魔性の妖女たちに奇妙な行動を強いるだけのなにかが。
それを付きとめることさえできれば、そのときこそ奴らに一矢報いることができる。その可能性がある以上、おめおめと狂気になど陥ることがどうしてできようか!
俺にはまだ、やらねばならないことがある!
無力感に、絶望に潰えかけていた気力を憎しみがかきたてた。破滅の瀬戸際に追い詰められた自我が、たった一つの足掛かりをもとに捨て身の反撃に転じたのだ。過酷な戦いを切り抜けてきた意思力が情念を制御し、狩人の光を宿す目で黒髪の少年は虚空を睨んだ。しかし悪夢の刻の始まりを告げる無慈悲な闇は、そんなバドルの小柄な姿を廃墟のようなあばらやもろとも呑み込んでゆくのだった。
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荒野の東の沼地のあばらやが闇に閉ざされた同じ時、西の森の広大な闇に乙女もまた閉ざされていた。
背中に突き抜けた矢もそのままに、彼女は光苔に覆われた樹の根元に取りすがり力なくむせび泣いていた。どうしてこんなことになったのかと、折れた心がただそれだけを繰り返していた。
なにが起こったのか、具体的なことはまるでわからなかった。だが二つの確信が乙女の脆い心を打ちすえ、奈落へ突き落としたのだった。
ミランは死んだ。それもなにか恐ろしい死に方で。
それはミランが命がけで助けたあの少年をあれほど悲しませ、しかも自分のせいで彼が死んだと信じ込ませてしまった。
沼地の家にミランの姿はなかった。怯えて逃げ惑う見知らぬ男たちをかきわけて、あの少年は姿を現わした。そしてなぜか呆然とした面持ちで自分を見つめた。
だが不安にかられてミランはどこかと問いかけたとき、少年の顔に浮かんだのは絶望だった。恐ろしい、受け入れられぬ予感に自分がたじろいだとき、少年の目に激しい憎悪が燃え上がった。おまえのせいだ、おまえのせいだとその黒い目が責めていた。
自分は知らない、自分ではないと必死に訴えようとすればするほど少年の悲しみと憎悪は燃え盛り、ついに悲痛な絶叫とともに彼は自分を弓矢で射抜いた。不死身の体が痛みを感じなくても、その絶叫に、矢を射尽くした後の号泣に突然すぎるミランの死という無慈悲な事実を突きつけられ棒立ちの心は、叩きつけられた憎悪と悲しみの塊をまともに受けて挫かれた。
悲鳴をあげた心に感応した魔の森の守護の力が発動し、気がつけば自分はここにいた。この緑の闇の永遠の虜囚にすぎぬことを見せつけるかのように。いかなる希望も試みも、願いすら無残に潰えたのだと思い知らせるかのように。
彼女の心は慙愧の念ただ一色に染められ、黒髪の少年の憎悪に呪われた魂は同じ問いかけを力なく繰り返すばかりだった。
私が願ったことは、しようとしたことは、こんな結果に終わるしかないほど間違ったことだったのかと。
呪わしい現実から目をそらし、人と見なされることを夢見た。ただそれだけのことが、これほど許されぬことだったのかと。
いまや乙女の心には、斧を打ち込まれたような深い傷が大きく口を開け、不滅の肉体の牢獄に繋がれた瀕死の魂が軋むごとに、緑の瞳からはとめどなく涙がこぼれた。だがその問いに答える者どころか、この魔の森の深き闇の中には、全ての色彩を失い緑の濃淡に染まったおぼろな姿を目にする者さえ、いるはずがないのだった。
そして生きる力も望みも失くした哀れな魂宿る不滅の肉体を、魔の森は守護しつつもその身の妖気を糧にして、深き闇の領域をじわじわと拡大してゆくのだった。
いつか大陸を覆い尽くすその日まで。
全てを緑の闇に呑み込むその日まで。
終
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