▼「塵埃秘帖」という日記があって、そこには取るに足らないことを書いている。もう10年以上も前から断片的にかく。中には本当にゴミ箱に放り込まれて消えて行ったものもある。
▼今年もメモがいくつか残っていて、それも断片的には塵埃秘帖で取り上げたりしてきたものの、断片の片割れを棄てられずにいたり、また読むかもしれないのでと思いつつ座右に置いたままのものもある。
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福永武彦、風土 から
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道子さんが一人でぼんやり考えている時には、あの人に天使が附いていて、二人の間で何か秘密なお喋りをしているんでしょう。
それは君がまだ小さくて、人生を知らないからだろう。人生というのもこうしたものだ。表面はいかにも静かで何の不安もないように見えるが、しかしいつでも、白波のように、絶望が牙を噛んでいるのだ。海はまったく人生に似ているよ。粗暴で、強情で、残酷で……。
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▼作品のどのあたりだったのかはあまり覚えていない。福永武彦は、何も結果を求めないで、正直に活字と向き合い、目に見えるものと語り合いたいときなど、しみじみと読める。静かに読める作品たち。
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今年は向田邦子も読んだ。
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向田邦子
「花底蛇」
花をいけるということは、やさしそうにみえて、とても残酷なことだ。花を切り、捕われびとにして、命を縮め、葬ることなのだから。花器は、花たちの美しいお棺である。
花をいけることは、花たちの美しい葬式でもある。この世でこれ以上の美しい葬式はないであろう。
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「無口な手紙」
昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持ちを伝えるのに石を使った、と聞いたことがある。
男は、自分の気持ちにピッタリの石を探して旅人にことづける。
受け取った女は、目を閉じて掌に石を包み込む。尖った石だと、病気か気持ちがすさんでいるのかと心がふさぎ、丸いスベスベした石だと、息災だな、と安心した。
「いしぶみ」というのだそうだが、
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「独りを慎む」
ソーセージを炒めてフライパンの中から食べていました。
小鍋で煮た独り分の煮物を鍋のまま食卓に出して小丼にとりわけず箸をつけていました。
座る形も行儀が悪くなっている。
同じ人間でも男の笑いと女の笑いは別である。
にらめっこがおかしくなくなったとき、男の子はおとなになる。女がヘンな顔を見ても笑わなくなるのは、老婆になったときに、死に目に近いときであろう。箸が転げて笑うのは女である。男はそんなものでは笑わない。女は、身に覚えのあるもの目に見えるものしかおかしくないのだ。政治や社会現象は目に見えない。抽象画である。女は笑うことが出来ても、嗤うことは出来ない仕組みに身体が出来ているらしい。
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▼水の流れが元には戻らないように、私の瞬間に考えることは、正確には、二度と再現できない。それは生きている自分の姿にも当てはまるものであろうし、日常の自分の姿や言葉にも当てはまると思う。
無数の感情のなかにというか、刻々と変化する心理の上で、私たちの五感は刺激を受ける。
今年のわたしは、体や心のどのあたりをどのように、刺激されたのだろうか。
棄てられずに残っている言葉の断片から思い出している。
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