「荒野にて」は、見送ってしまったけれど、45周年の結婚記念日を迎えた夫婦の崩壊を見せた「さざなみ」での、あの老境のシャーロット・ランプリングさんから引き出した演技の印象が鮮烈なアンドリュー・ヘイ監督が、山田太一さんの小説をベースとした作品と聴いて出かけた次第。
異性間の婚姻を冷ややかに見つめた「さざなみ」に対して、本作は、予告でも挿入されていたように、ゲイの方達の「求めあう様子」もシッカリ収められて。また、世間的には今以上にその嗜好にたいして理解が深まっておらず、両親も当時の一般的な考えに漬かっていて、子供の「苦しみ」に思いを寄せる事なく他界して、最も近い近親者に本当の自分を理解されずに、中年に至るまで抱えて来た心情を救いあげて、端端に発せずにいられない表明の姿勢が伺える。
仕事である脚本が進まない焦りもあって、心を塞いで対応してしまった若者の傷つき迷う魂を昇華させる描写まで見せて。「さざなみ」での突き放し感とは、対極に、思い入れが籠ったかのエピソードの掬い取り様であります。
山田太一さんの小説自体には触れた事は無くて。大林監督の「異人たちの夏」は、封切時に見ていますが、初見以来見直してないので総てハッキリ覚えておりません。生き方に煮詰まった風間杜夫さんが、行きあたる亡くなった当時のままの片岡鶴太郎さんと秋吉久美子さん演ずる両親に纏わるエピソードが、良き時代そして馴染みの文化背景というのもあって、情緒深く、現実逃避的なシェルターとして主人公が離れがたい思いを抱くのは理解できたのだけど。
海外翻案版の本作主人公アダムと深い仲になるハリーの立ち位置にあたる、霊的幻想に導く名取裕子さんが、別格な存在に写って。平たく申すと、違和感があって、大林さんらしくなかったというか。80年代宮尾登美子さん原作で「お肌」を晒してオジサン動員に貢献していた流れで起用された(決して、名取裕子さん本人を責めている訳じゃあございません)感が、見た当時は拭えなかった。
その印象を思うと、親子のキャッチボールとか三人で囲むすき焼きとかノスタルジー要素は当然取り除かれているけれど、アダムが両親の死別から抱えていた、自身の在り方を理解されず、他者から気付付けられた経験を癒される事無く引きずって来た悔しさとか、ただでさえ苦難な生き方のために増幅する「報われ無さ」を、現実とまぼろしが境の無い生活感の中で、向き合い、再生して行く過程がスキなく描かれおり、大林監督作の印象と違って、アンドリュー・ヘイ監督のビジョンに巧みに引き寄せられて受けとめ易い。
アダムが、ペットショップボーイズを聴くのは判るけれど、フランキーゴーズトゥハリウッドもフェイバリットになるのは、本作で知りました。全くの、余談でしたけど。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネプラザサントムーン 劇場�い砲�
ログインしてコメントを確認・投稿する