パラパラと昔の日記を捲ってみると、随分と懐かしい。
近年は苦節の日々を送っていることもあるが、そういうときの方が自分流の感動が残っていて面白い。
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平成19年
立春が過ぎて安堵の朝寝かな
立春に母を訪ねておかき食う
ぼたん雪きらりと光る指きった
平成18年
くちびるが今でも好きよとくちずさむ
平成17年
立春が過ぎても寒し猫だるま
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豆食えどオヤジの年に追いつけぬ (平成20年 ねこ作)
ハングリーという言葉がある。昔、よく上司が口にしていたのを思い出す。しかし、この言葉には一種の空しさのようなモノもあった。
貧しくなれ、苦しめ、痛がれ、悲しめ、泣け。
人は、このような言葉を浴びせられ、ときには命を受けて、艱難辛苦に立向かう。闘志を煮えたぎらせる必要もあるだろう。だが、「悲しむ」という言葉に文法的命令形は存在しても、その意味として命令形はあり得ない。「悲しめ」と命令されても、悲しむことは出来ない。
果たして、私たちはハングリーになれるのだろうか。
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本当の幸せを知る者は、本当の不幸を知ったことのある者だけである。決して有名人の残した言葉ではなく凡人のものだ。ごく普通に不幸な人が、不幸の中に居ながら自分は幸せだと感じたとき、本当の幸せが理解できるという。もしそうだとしたら、現代人が感じている幸せとは、偽りの幸せになってしまう。何故なら、多くの人は本当の不幸を知らないのだから。偽りの幸せを、ホンモノの幸せだと思っていることほど空しいものはない。
寒さの中でじわじわと蕾を膨らませ続けているものがある。花を見て、また、自分の寒さを省みて、本当の幸せを知った者の心には、計り知れない美があり勢いがある。
北野の梅は悲しい。しかし、どこからかしら、鼓動のようなモノが聞こえてくる・・・ような気がする。
東風吹かば匂ひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ。
そろそろ、ほころび始めるのだろうか。
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