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2026年07月05日23:35

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「マンハッタン」を見て。〜愛する気持ちを踏み違え続ける中年男を呼び覚ます懐深き街〜

本邦初公開1980年から流れた歳月を経て、色々と変わったものである。
私が、ウディ・アレン監督作を劇場で初めて見たのは「カイロの紫のバラ」です。その前に、当然配信ポータルなんぞ無かった10代当時は、TV放映が映画の「2次利用」の花形で、何処のTV局にもゴールデンタイムの放映枠があって。月曜ロードショーの荻昌弘さんの解説で見た「スリーパー」が、ウディ氏との第一次遭遇になるのだが。この「マンハッタン」は、当時全盛だったビデオレンタルのVHSで、過去作を数本遡ったうちの1本が本作であった。

大概は、「なに体」なのか正確な名称が判らないけど、毎度おなじみの字体で大書きされた作品タイトルに続いて、アルファベット順のキャスト表記で本編が始まるところ。本作は、演者として自らTV台本家から作家に転ずるアイザックとして出演する監督の構想執筆中のモノローグに、マンハッタンの街の情景を切り取った短い間隔で繋いだ画像にガーシュインのラプソディーインブルーが流れる。執筆の方向が定まり興に乗って来ると、曲は盛り上がりに入り、画像は夜の摩天楼の後方に花火が打ちあがる映像で。彼の愛するホームタウンへの愛着がかかげられる。

今回、4K画質の上映で、特にホワイトの光沢が眩しくなるとかケバイ加工ではなく、2色による濃淡がただフィルム上の「傷あと」を排除しただけかの「ありのまま」な印象。色が絞られた分、雑念に囚われる事無く見入ってしまう。

タイトル表記は、一連の街カットの冒頭、たまたまそこに有ったのか、付替えたのかは判らないけど。やはり、建物の縦看板の電飾文字で済まされていた。(その時、映倫の認証表記も写り込んでないから判り難い)それを目に留めて、初見の時に見逃していた自身の細やかな落度が長い年月経て、晴れて解消されたけれど。

それより、何より、ガーシュインの曲自体にこの長き間に馴染みが出来て。本作のポスターのキービジュアルに起用されているクイーンズポロ橋まで、ウディ・アレンとダイアン・キートンが明け方歩いて向かう途中に流れる場面で掛かるのは、「誰かが見ている」だってこれまた、初見時には気が付かなかったし。ともかく、演出の派手さは嫌いながら、手法を凝らした「街」への賛歌をスクリーンで生きている間に浴びられて、本望。

監督・脚本兼任のウディ氏ご自身が出演となると、心配症、自意識過剰故のボヤキに、取った行動が裏目の悪循環。カッコ悪さを一手に背負って、嘲笑、苦笑、冷笑等々見る人にとって優位さから、スッと漏れる笑いを呼ぶ。でも、劇中モテて、愛されているのは忘れてはイケナイ。この邂逅までに、字幕なしでセリフに反応出来るまでには至らなかったけれど。現世では、ダラダラと演者に託したかの長尺作品がもてはやされているけれど、2時間を切って見せる話術は、この頃既に完成形。


先ごろ、これまた長いブランクを経て公開された続編が好評だった、メリル・ストリープさんが、アイザックの前妻役として40年以上昔の駆け出し頃のクールビューティーっぷりがフィルムに焼き付かれて。彼女はアイザックと離婚し、二人の間にもうけた男の子を連れて女性と家庭を築いたうえに、以前の結婚生活の暴露本を書き上げて、それが、アイザックの悩みの種となるのだけれど。下手に回想をいれる事無く、あくまでも、セリフからその状況を見る側が各々受け取る流れ。以前は、ただ、ウディ=アイザックが、困った状況を回想するうちにどもっていると表面のみを受け取っていたけれど、口では、「あせって、アクセル踏んで前妻と相手の二人を轢きそうになった」とは言っているけれど、彼が内心抱く屈辱に思いを馳せられるようになった。

今年度の「午前10時の映画祭」での各月別テーマの一環で、ダイアン・キートンさん追悼枠として、「ゴッドファーザー�供廚繁楮遒�ブッキングされたのだけど。主旨からしたら、「ミスターグッドバーを探して」、「レッズ」、「赤ちゃんはトップレディがお好き」に「恋愛適齢期」とか、主役や準主役級の作品が選ばれるところだけど、作品の集客力や知名度を優先選択したのかなと推測。ウディ氏にとって最初のミューズにして、生涯に渡る理解者であったD.キートンは、本作では、アイザック他男性の「浅はかさ」を見る側に納得させるための役で、メインを担うのは当時17〜18歳のマリエル・ヘミングウェイである。

初見の時は、そのまま受け止めていましたが。ほぼ、40代のオジサンと女子高生のカップルなのである。チャップリンもそうですが、男性で突出した才の持ち主って、対象が若くなりがちと云われて。この後のウディ氏ご自身の私生活で、それが「実行」されましたが。劇中のアイザックも、彼女の将来を省みて同年代の異性に目を向けるように仕向けてはいる。

「愛があれば」で、片付けられそうだけれど。スクリーンで対面する間、こちらも女の子の親となったうえに、劇中のアイザックの年齢を超えてしまったものだから。マリエル扮するトレイシーの親は画面に出て来なかったけれど。いざ、自国の環境にこの設定を持ち込むも、どうしても「色眼鏡」が外せない。犯罪方向に考えてしまいがちだし、フィクションでも日本人配役想像が立たない。

これも、劇中のアイザックの会話でしか詳らかにされないのだけど、一度別れを切り出した後、トレイシーからの留守電に、彼が勧めた古典作品(「大いなる幻影」だったかな)が深夜TVで放送されるねって、何とか修復したくて折り返しを求める声があったとか。歳を取ると、相手には無駄かもしれないけど、蓄積した知識や経験を授けたくなって。そういう一言が欲しいとかその歓びだとかは、見た当初は判らなかったし。

身を引くのも、判るし。常識に囚われれば、年若い娘との関係を維持するのに躊躇うだろう。それでもトレイシーの居所に出向いて、アイザックは、見苦しくも「別れ」の撤回をしようとするのだけど。劇中の見る人にはクスっと笑いを漏らしてしまう彼の失敗や、ニヒルなボヤキを見聴きしてきたトレイシーが放つ一言は、40年以上の長き年月を経ても、いや、だからこそ突き刺さります。果たして、自分はひとを信じて来たでしょうか。

もし来年も「午前10時の映画祭」が続くなら、「アニー・ホール」を上映して、D.キートンがメインのウディ師匠監督作品とスクリーン対面を希望いたします。なんなら、男性版「カイロ」である、「ボギー、俺も男だ」でも良いですが。


拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネマサンシャインららぽーと沼津 シネマ3にて

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